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憐れむことの暴力性

少々いつもと違い、強い言葉のタイトルになってしまった。

というのも、定期的に聞いているポッドキャストの中で聞こえてきてハッとしたから。

「かわいそうと思われるのが嫌なんですよね。それまでなんとも思ってなくても、かわいそうと思われた瞬間、急につらい気持ちになるんです。でもテレビとかメディアは「かわいそう」と思うことを優しさの表現の1つとしてるでしょ。憐れむことの暴力性ですよね」

子どもの頃にうっすら感じていた引っ掛かりとか、「言っても無駄だな」「わざわざ言わなくてもいいかな」みたいな感覚ってこの感情に集約されているんじゃないかな、って思った。

正直これ以上言語化する必要がないくらい網羅されている。
けどもうちょっと紐解いてみたい。


昔のドラマでの有名なセリフに、

「同情するなら金をくれ」

というフレーズがある。これもおんなじジャンルだと思う。

まず大前提として「かわいそう」と言っている人は何も悪くないということ。本当か、本当じゃないかは一旦置いておいても、関心を持って反応を示しているという点ではありがたいことなのかもしれない。

ただ、言われた側としてはそのフェーズは過ぎていて。いや、過ぎているというかあんまり考えないようにしている、の方が正しいかもしれない。だって考えたって何か変わるわけじゃないんだから

前を向くしかないんだから。今ある状況で光を探していくしかないんだから。

そんな中で「かわいそう」と言われるのは、どこか現実に引き戻される感覚だし、相手にそう思わせてしまっている自分にもちょっと悲しくなる。

そんな思いをするくらいなら、と言わずに自分の中に溜め込んでしまうんじゃないかと思っている。

そういった意味でも「憐れむことの暴力性」という言葉は、言い得て妙だなと。


ただ、周りや風潮のことを言っててもそれこそ何かが変わるわけじゃない。
自分の周りから変えていかなくちゃいけない、そのためには自分から変わっていかなくちゃいけない。

自分が前を向いていれば人が憐れむ隙なんてないし、誰かを憐れむのではなく、一緒にどうすれば光を見つけられるか探せる人でいたいな、って。

そんな風に思う。

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塩浦良太
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