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共通言語で語る、語れる

人に何かを周知したいとき、物事を伝える必要があるとき、
「共通言語で語れるか」が大事というのはこれまでも何回か書いてきた。

情報を整理するとき、人は「イメージできるか」という部分が結構大事になってくると思っている。イメージできるから次の行動が予測できるし、イメージできるから情報に輪郭が生まれてくる。

野球を知らない人に野球の例えで説明してもちんぷんかんぷんだし、英語を知らない人に英語で説明してもちんぷんかんぷん。
ちょっと極端だけどそういうことで。

むしろ相手との共通言語で説明出来たら、グッと距離は縮まる。
海外で日本人に会えたら嬉しかったり、県外で地元の方言が聞こえてきたら嬉しかったり、みたいな。


で、情報を発信する側に回ったときはいかにこの「相手との距離を生まないか」というのが大事な部分になってくる。

距離を感じると途端に言葉で入っていきにくくなるから。

というのは前段で。


発信をするときに「共通言語で語っていく」ということが大事なのとは別に、シンプルに人との対話の中で「共通言語で語れる相手がいるか」ってすごく大事だし、その存在の心強さを感じている。

例えば仕事をしていて、自分が担う領域の悩み事があったとしよう。誰もが知っているわけじゃない。でも悩んでいる。そんなとき、

「これどう思う?」

と聞いて、

「それって○○だよね~。自分も悩んでる」

みたいな会話があったとしよう。明確な答えが得られるならそれに越したことはない。ただ、もし回答が得られなくても、そうやってあーでもない、こーでもないと言える関係がいる、ってすごい心強いことだ。

境遇を分かち合えるってでかい。
逆にそれが出来ない時、ものすごく「独り」を感じる。
「一人」じゃない、「独り」だ。

周りに人はいてもポツン、を感じる。
だから移動して、コミュニティを探して共通言語で語れる場所を求めるんだと思う。

今回の記事は「だから~」と何か語れるものではないけれど、強いて言うなら、

「だからこそ、共通言語で語れる相手は大事にした方がいい」

といったところか。それが自分を守ることにもつながるからね。


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