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それは自分の言葉になってるか?

世の中にはいろんな言葉がある。
人を包み込むような言葉があれば、人を突き放すような言葉もある。
専門的な言葉もあれば、外来語のような言葉もある。
本当に本当に、いろいろある。

「何を言うか」「誰が言うか」みたいな論争がある。

発言の内容が大事なのか、発言をしている人が大事なのか。
もちろんこれは状況によって多少のずれはあるだろうけど、私が思う関係性としては、最終的には「誰が言うか」に引き寄せられていくという風に捉えている。

「何を言うか」って幅が広い。
冒頭にも書いたように、世の中にはたくさんの言葉がすでに転がっていて、引用してくることが出来る。

だけど言葉というのは不思議なもので、”言葉”と”その言葉を使う人”の関係性というのが顕著に現れると思っている。

なんかここの部分に関して、まだ上手く言語化できないのが悔しいのだが、「言葉を使っている」というよりも「言葉に使われている」という印象を受ける説明や文章を時折目にする、耳にする。

「この人自身の言葉になっていない感じがするなぁ」

という。こういうケースが起こるのって名言だったり、専門的な言葉だったりがありがちなんだけど、外面としては”それっぽい”ことを言っている一方で指で軽くチョンとするだけで脆く崩れていきそうな感覚を受けることがあるのは私だけだろうか。

でも誰だって初めての言葉に触れた時は「言葉に使われた」状態になるのは当然のことだ。大事なのはそこからいかに中身を理解したり、自分の中で噛み砕いたりして”自分の言葉”にしていくか、なんだと思っている。

そこの作業って絶対怠っちゃいけないと思う。

それを継続して行っていくうちに、結果として「誰が言うか」の”誰”の部分の価値が高まっていき、最終的にはその”誰”に引き寄せられて人は共感したり、魅力的に感じたりするんじゃないかと。


初めて触れた言葉を、自分の言葉にしていくにはすごい長い道のりだと思う。もちろんたくさん考えなきゃいけないし、いろんな場面で使ってみないといけない。いろいろ試していくうちに、磨かれてしっくりくるものになっていく。

ちょっと大袈裟なことを言うけれど、生きていくうえで「自分の言葉を増やす」というのが1つの人生テーマなのかもしれないなとふと感じた。

どこを突っつかれても、確固たる自分の軸があり、またその言葉の意味を理解し、必要に応じて使い分けることが出来る。そんな「自分の言葉」を、どんどん増やしていきたいな。


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塩浦良太
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