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広く遠くに届けることは、近くを無視していい理由にはならない

いまやいろんなSNSが普及して、インフルエンサーという言葉があっという間に浸透して久しくなった。

学生時代日の目を浴びてこなかったとしても、SNSから有名人になる人だっている。発信力をつけることで、多くの人を動かせる時代にもなった。直接会ったことのない誰かの一言に心を揺さぶられ、動く。

またそういった発信力があることで、それでお金を稼げるようにもなったからこそSNSはどんどん普及しているんだと思う。

かくいう自分だってnoteだったり、Xだったりいろんな媒体で発信をしている。そこには別に「稼ぐ」みたいな意味合いはなく、”自分を保つ”ために発信している意味合いが強い。だけどその半面で、自分の経験がこれを読んでくれている誰かのきっかけになってくれたらラッキーだなと思う面もある。

こういったSNSでの発信のスタイルって人によると思うが、私はどちらかという「綺麗ごと」系が多いと自分で思っている。

最初はこういうところで発信することに対して、勝手に背筋が伸びて「いい部分を見せよう」としていた気がする。ただ最近は少しずつ素の部分も出てきたと思っていて。ただその中であえて「綺麗ごと」を並べることもある。

それはもちろん本気で思っていることを言っているわけではあるんだけど、それと同時にせっかく読みに来てくれた人が前を向けるかたちで読み終えてくれればいいな、という思いもあるからだ。

というわけで、油断をしているとどんどんどんどん顔の見えない不特定多数の人に向けた「言葉選び」に配慮や丁寧さを意識している自分がいる。



でも、ちょっと待って。

じゃあ日常生活の言葉遣いはちゃんと意識できてるの?
そんなことをふと思った。


こういった発信の場面って、ある程度心を落ち着けて書くことが出来る。
多少イライラだったりモヤモヤがあっても、文字にすることで自分と距離を置くことが出来、俯瞰的な視点で物事を書くことが出来る。

でも日常生活なんて瞬発の連続だ。
会話のキャッチボールがはやい。
1つ1つ丁寧に整理している時間なんてない。

そんな時、感情に身を任せて言葉を出していないか、ってふと自分を顧みる。

意識しているつもりでも、やっぱり調子が悪い時とかって少し棘ある言い方だったかも、、、みたいに後で思うことがあるのが事実だ。

そこに対していったいどれだけの問題意識を自分で持てているだろう。

目の前の普段関わる人だったり、大事な人たちだったりに丁寧な言葉を使えなかったらいくら広く遠くに向けて「それっぽい」言葉をはなっていても何の意味もないと思っている。

遠くを見すぎて、近くが見えなくならないように。
この感覚って絶対忘れたくない。


せわしない日々が続くからこそ、そんなことをふと思った。

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塩浦良太
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