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誰かのためを想える人は、誰よりも自分と向き合った人
「誰かのためになることがしたいんです」
学生と面談をしているとそういった言葉をよく聞くことがある。
私がこれまで話してきた学生さんたちは皆さん優秀で、自分の考えをしっかり持たれている方が多くて「誰かのため」を想う気持ちにすごく一貫性があって素敵だなって、学びになることが多い。
「誰かのためになりたい」、これって世の中いっぱい言っている人もいる気がする。言い方はあれだけど、”すごく聞こえがいいから”。
でも中には「それってどういうことですか?」と聞くと、うまく答えられなくて「あぁ、形式上言ってたのかも」と感じる場面もあるけれど、今面談している学生さんたちにはそれを全く感じない。すごい。
だからもちろんそういった「自分の考えをしっかり持ってる人」たちと働きたい思いがありつつ、ただこれはご縁でもあるため、必ずしもうちの会社が選んでもらえるわけでもない。
それは百も承知の上で、
一企業の新卒採用担当にかかわっている人間でありながら、それ以前に一面談をした人間として、
「誰かのためを想う気持ち、ぜひ貫いてほしいなぁ」
と強く思うんだ。
これって実は自分の就活時代からくるもの。
私自身も「誰かのためになりたい」ということを就活の時によく言っていた。これだけ聞くとすごい薄い言葉だけど、「それは~いう理由で、、」と語ってた気がする。
そんなある日、面接の中でこんなことを言われた。
「誰かのためを思う気持ちは素晴らしいと思います。でもそれって自分を大切にしていますか?もっと自分を大切にしたほうがいいですよ」
何も言い返せなかった。なんなら「あ、自分って自分を大切にしていないんだ」「誰かのためを考えるって自分をないがしろにしていることなんだ」と真に受けてしまった。
そこからちょっとだけ「誰かのため」ということが言いづらくなった。
別にこれは当時の面接官にそういわれたことを根に持っているとかそういうわけじゃない。むしろ当時の面接官に感謝しているくらい。
何気なく使っていた「誰かのため」という言葉の本質を、考えるきっかけになったのだから。あまり「本質」という言葉は使いたくはないんだけど、ここではあえて使っていく。
じゃあその本質って何か。
それは、
”誰かのためを思える人は、すでに自分のことを思えている人”
ということ。多少例外もあるだろうが。
人間って自分が大好きな生き物だと思う。それって至極当然で。それでも誰かのことを思えるって、きっと誰かのためになることが自分のためにもなるということをわかっている人で。
それはつまり自分のことを思えている人というわけで。
さらにいうと自分のことをよくわかっている人というわけ。
自分に対して余裕がないと、周りなんて見えないからね。
それに自分のことを大切にできないのに、周りのことを大切になんかできないからね。
だから面談の中で「考えがしっかりしているなぁ」と思う学生さんには言っている。
「誰かのため、と言って「もっと自分を大切に」と言われても気にしないでいいですからね。だってあなたはすでに自分のことを大切にできているのだから」
と。
誰かの一言で、大切な想いを捨ててほしくないから。
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