蛇人間、生まれる(7) 【長編小説】
蛇人間、生まれる(6)の続き
九十九
彼は「あれ」については説明してくれなかった(というか原理的に無理だ、というのが彼の理論だった)。「説明したって無駄なんだよ。実際のところ」と彼は言った。「説明しようとすると、すぐに形が変わってしまう。捉えた、と思っても、スルスルと先に進んでいってしまう。いつもそんな感じなんだ。だから走って追いかけている方がまだいい」
「まるで蛇みたいだね」と僕は言う。
彼はすごく不思議そうな顔で僕の目を見ている。「どうして? どうして蛇なんで持ち出すんだ?」
「いや、別に意味があったわけじゃない」と僕はドキッとして言う。「常に動いていて、スルスルと先に進んでいってしまう・・・ってところから蛇を想像しただけなんだよ」
「ふうん」と彼は言う。そして前を向いて、突然先に進み始めてしまう。僕は慌ててあとを追う。
東京都郊外の街並みはかなり長く続いていたが・・・ふと気付くと、僕の実家のある東北の田舎の光景に移っている。住宅地が姿を消して田んぼが姿を現す。稲刈り直前くらいの時期だな、と僕は思う。もっとも人影はない。まっすぐ続く道路。軽トラックも、自転車に乗った老人も、いない。鳥さえ飛んでいない。ものすごく寂しい光景だな、と僕は思う。
僕は小学生の頃に自転車で自分が飛ばしていたまさにその道を、今彼と二人で歩いている。そう、ここに亀裂がある(アスファルトの亀裂のことだ)。そう、このガードレールは、こんな風に錆びていたっけ・・・。あの少し先に親戚の人の家がある。おじいちゃんの従兄弟だかなんだか、そんな感じの人だ。この家はその数年後に焼けてしまった。家の方にまで煙が漂ってきたな・・・。
実家まであと少し、というところに来て彼が突然足を止める。僕は今度は警戒していたから、激突しそうにはならなかった。ふう・・・。彼は不思議な目で前方を眺めている。僕もまた目を凝らしてそこを見てみる。でも何かがあるようには思えない。ただの広い、道路だ。田舎の、道路。車もほとんどやって来ない(つまり現実世界においてもそうだった、ということだが)。たまに動物が通り過ぎることはあるが(狐とか、狸とかだ。熊は幸いもっと山の方に行かないといない・・・)。
「何かが・・・」と僕は口に出しかけてやめる。というのも彼が今真剣な目付きで前方の何かを見つめていることに気付いたからだ。彼はやがて足元にホルンを置いた。コトン、という音を立てて、それはその場に置かれた。彼は二歩前に出た。そして一度大きく息を吸い込んだ。
僕は何も言わずにその状況を眺めている。あたりはしんと静まり返っている。風さえ吹かない。これはあまりにも静か過ぎる、と僕は思う。これはあまりにも静か過ぎる。でもそんなことに文句を言ったって、当然のことながら、状況が急に変わるわけではない。僕はただそこにあるものを受け入れている。一人の純粋な観察者として。
彼がゆっくりと息を吐き出しているのが分かる。本当にゆっくりと、時間をかけて・・・。まるで精神統一をしているみたいにも見える。でも何のために? 彼は今ここで、何をしようとしているのだろう?
そのとき地面に置かれたホルンから、一匹の黒い蛇がニュルニュルと飛び出してくる。僕はそれを見て当然のことながら驚くが(驚かない人がいるだろうか?)、一方で心のずっと奥の方ではこう思ってもいる。これが自然な流れだったのだ、と。
蛇は、自然な流れに従って、ホルンの中に隠れていたのだと思う。僕は心の奥でそれを知っていた。少年はここに来て、ゆっくりと息を吐き出している。蛇はベルから出てきて、ニュルニュルと、彼の足元へと這っていった。右目が赤で、左目が青だった。強そうにも見えないが、弱そうにも見えない。掴みどころがない、というのが唯一の正しい表現かもしれないな、と僕は思う。きっと捕まえたと思っても、するりと脱皮してしまうのではないだろうか? なんとなくそういう雰囲気が、その蛇にはあったのだ。永遠に進み続ける蛇。
彼は息を吐き切ってしまうと、グッと力を込めて、まるで空気中に開いた隙間を押し開くように、両手をそれぞれ左右に動かしていた。力づくで、空間に、穴を開ける。まさにそういったジェスチャーのように見えた。何もない空気に向かって――少なくとも傍目には、ということだが――彼はそのジェスチャーを行っていたのだが、まさに本当に穴が開いたかのように、蛇がその隙間に入り込んでいった。スルリと頭を滑り込ませ、その奥へと消えた。本当に消えたのだ。あとには気配すら残らなかった。
今だ、と僕は思う。蛇のあとを追わなければならない。ここでぼおっと突っ立っているわけにはいかないのだ。僕は観察者なのだ。だとすると、何かが起こるのを、この目でたしかめなければならない、ということになる。少年はこちらを見なかった。手がプルプルと震えているのが分かる。額から汗をかいているみたいだった。地面に置かれたホルンが、僅かな光を反射していた。空は相変わらず灰色の雲にどんよりと覆われている。僕は一歩目を踏み出し、次に二歩目を踏み出した。そのようにして彼が開けた隙間へと入り込んだ。死の通り道、と誰かが僕の頭の奥で言っている。でもそれが誰なのか、僕にはまったく分からない・・・。
入った途端、ドクン、という大きな心臓の鼓動が聞こえた。でももちろんそれは僕の心臓の鼓動じゃない。僕の胸には今、穴しかないのだから。それは彼が少し前に言っていたことだ。僕は実家前にあったアスファルトの道路から、突然狭い、薄暗い部屋へと移動してきている。今まで一度も来たことのない部屋だ。しかし、にもかかわらず、記憶のある部分が疼いている。それも変なふうな疼き方なのだ。ものすごく気持ち悪い。あるいは僕は、何かここに関する記憶を持っているのかもしれない。直接には結びつかないけれど、間接的に結びついている何か・・・。
ドクン、とまた鳴る。そこはコンクリートに囲まれた薄暗い部屋だった。裸電球が一つ、天井からぶら下がっている。何の匂いもしなかった。腐った臭いも、薬剤の匂いも、動物の匂いも、何もしない。綺麗さっぱりニュートラルだ。綺麗さっぱりニュートラル。
ドクン、とまた鳴る。僕はあたりを見回すけれど、どこからその鼓動が聞こえてくるのか分からない。蛇を探すけれど、蛇の姿もない。変だな、と僕は思う。ついさっきあいつはここに入り込んだはずなのに・・・。
僕はふと気付いてしまうのだが、足元に一人分の人間の白骨が散らばっている。ちょうど一人分だ。僕にはそれが分かる。始めのうちは遠くばかり見て、このすぐ足元にあるものに、全然気付かなかったのだ。ドクン、とまた鳴る。そしてその鼓動と共に、僕はある事実を悟る。これは僕自身の白骨だ、と。
しかしよく分からなかった。だって僕はここにいるじゃないか? どうしてこうやって分離することができる? あるいはこれは何かの象徴なのだろうか? 実際の白骨というよりはむしろ、何か別のことの暗示なのだろうか? だとしたら何の? 「死」という以外の何をこれは象徴しているのだろう・・・?
そのときドクン、とまた心臓の鼓動が鳴って、頭蓋骨の目の奥から(右目の奥だ。ちなみに)何かが飛び出てくる。それはもちろんあの黒い蛇だった。僕がついさっき見失ったばかりの蛇だ。左右で色の違う目。テカテカと光る胴体。どこかに向けて、そいつは進んでいく。その黒さと対比されて、頭蓋骨は嫌に白く見える。空白、と一瞬僕は思う。空白、と。
またドクン、と心臓の鼓動が鳴る。四角い部屋は、四角いままだった。僕はそこで気付いてしまうのだが、ここにはどこにも出入り口がないし、窓もない。通気口もない。ただ四角くて、天井から電球が吊るされていて(それだってパチパチと点滅して今すぐにも死に絶えそうだったが)、密閉されている。床や壁のコンクリートはかなり古いように見える。だからまったく、一切隙間がない、というわけでもないみたいなのだが・・・。
蛇は壁の向こう端に行ってまた戻ってきた。まるでここにあるはずの出入り口が塞がれてしまっているんだよ、とでも言っているみたいに。僕は背後を見てみる。でもそこにはすでに僕が――僕らが――やって来たはずの空間に開けられた隙間はない。例の実家前の道路の姿も見えない。僕らは二人して閉じ込められてしまったのだ。この、奇妙な、四角い部屋に。
もっとも息苦しいという感じはしなかった。なぜなら僕には今心臓がなかったから。どこかで誰かの心臓が鳴っている大きな音は聞こえるが(ドクン、とまた鳴った)、その心臓本体の姿は見えない。僕はここで何をすればいいんだろう、と僕は思う。
蛇は落ち着かなげに床の上を行ったり来たりしていた。まるで彷徨える魂みたいだな、と僕は思いながらそれを見ている。どこにも行き場がない。救いというものが見当たらない。かといって死んでしまうこともできない。どうして? なぜなら我々はすでに死んでしまっているからだ。あるいはこここそが、死者の行き着く部屋なのかもしれない。個人的な死のための部屋。地獄とは個室だったのか、と僕は思う。
もっとも退屈である、という以外に苦痛は感じない。それはまあ、ありがたいことだった。動きを欠いた白骨。動いてはいるが、行き場を欠いた黒い蛇。観察者たる自分。執拗に鳴り続く鼓動(ドクン、とまた鳴った)。止まってしまった時。止まってしまった時。
僕は自らの記憶を通り抜けて、この部屋に辿り着いたのだった。それはまず間違いのないことだ。たしか最初は記憶の海を泳いでいて・・・その光の届かない底の方に、一連の不思議な震えを感じ取ったのだった。そこに手を触れているうちに・・・知らぬ間にあの広場にやって来ていた。そして例の不思議な曲・・・。
僕はたぶん自らの源泉を辿ろうとしていたのではなかったか。なんとなくそういう気がする。地上にいた頃の直近の記憶はなぜか消えてしまっているのだけれど――そこにあるのは空白だけだ。空白――自分が何かを求めていたのだ、という事実だけは感覚として身体の奥に残っている。僕は自らの心の穴を埋めるために――埋めるための何かを見つけるために――世界の根っこを目指して下りてきたのかもしれないな、とふと思う。そしてここにやって来たのだ。この、奇妙な、四角い、コンクリートで囲まれた部屋に・・・。
でも「源泉」というにはあまりにも不毛過ぎるな、と僕は思う。だってあるのは白骨と、壁だけだ。そして蛇。鼓動(ドクン、とまた鳴った)。僕はどうすればいいのか分からずに、ただ突っ立っている。蛇は無意味な移動を続けている。音はない。音はない。例の鼓動のほかは・・・。
僕はそこでふと、自分の胸に手を当てようとする。というのも、僕の心に空いている穴こそが、蛇の求めている出口なのではないか、と一瞬思ったからだ。その考えは本当に突然閃いたものだった。そうか、ここにちゃんと出口があるじゃないか、と。
でも駄目だった。ものごとは、そう都合良くは運ばないみたいだった。これが一般的な真実なのかどうかはよく分からないけれど、とにかく僕の人生においては大抵そうだった。ものごとはそう都合良くは運ばない。しかしまあ、何が本当の意味で「良いこと」なのかどうかなんて、ずっとあとになってみないと分からないものなのだ。僕にだってさすがにそれくらいのことは分かる。
と、いうことで、僕はその場に生じた、いささか不条理とも取れる状況を受け入れることにしている。僕には今肉体がない。それがつまりは、直面している状況の要約だった。あるいは本質か・・・。いずれにせよ僕には選ぶことのできないシチュエーション、というわけだ。僕には今肉体がない。たぶんこの部屋に入り込んだ瞬間からすでに身体を失っていたのだろう。そのことに気付かなかっただけで。だからこそ、このようにして白骨を客観的に観察することができていたわけだ。なぜなら今僕には肉体というものがないからだ。それなら話は分かる。かつて僕であったものがそこにいて――なぜか骨になってしまっているのだが――そして意識だけが抜け出して、「視点」として世界の有様を眺めている。もっともその「有様」は、四角い壁によって、非常に狭く限定されてしまってはいるのだけれど・・・。
ドクン、とまた鳴った。僕はじっとその音を聞いている。だとすると、この音の実在性も不確かなものになってくるな、とふと僕は思う。というのも「自分にはまだ肉体が具わっている」と考えている間は、この音はもっともっとフィジカルなものとして感じられていたからだ。まるで皮膚そのものが震えているような・・・。でも僕には肉体がない。だとすると・・・あるいはこの音は、僕が聞いていると思い込んでいるだけで、本当は鳴っていないのかもしれない。そういう可能性だってあるじゃないか? だって心臓の――おそらく心臓の鼓動だとは思うのだが――本体が見えないからだ。ここには壁と、白骨しかないじゃないか? 何がこんな音を発しているというんだ?
まあなんにせよ、鳴っているものは鳴っているのだった。それがまず事実だ。止まらずに鳴り続けている、鼓動。たとえ僕の勘違いだったとしても、結局のところ状況は同じだ。僕には何もコントロールできない。ただ受け入れるのみである。ドクン、とまた鳴った。蛇は結局は出口を見つけることができなかった。なにしろ穴を抱えていた僕の肉体は、すでに白骨に変わってしまっているのだから。
そのときカタカタ、という音がし始めた。始めは気のせいかとも思ったのだが、やはり気のせいではなかった。カタカタカタカタ、とそれは鳴っていた。徐々に徐々に、ボリュームは大きくなっていった。肉体を失った視点としての僕は、ただそれを聞いている。カタカタカタカタ、とそれは鳴った。 ドクン、という心臓の鼓動もまた、鳴り続けている。
鳴っているのはもちろん白骨だった。一人分の骨が――かつて僕という人間を構成していたはずの骨が――小さく震え始めたのだった。それが何を意味しているのかは分からなかったにせよ、とりあえず僕はその状況を受け入れることに決めた。何も考えないこと、と僕は思っている。余計な判断を下さずに、今ここにあるものごとを観察すること・・・。
カタカタカタカタ、と骨は鳴り続け、そのボリュームが頂点に達した(と思われた)ところで突然音が止んだ。ものすごく静かな空間が、そこには現れることになった。今ではなぜか鼓動の音も聞こえない。生と死、とふと僕は思う。僕は今自分がどちらの側にいるのか、それすらも分からない・・・。
そのとき柔らかいホルンの響きが聞こえてくる。もちろんあの少年が吹いているのだろう。例のあの曲だ。何と言ったっけか・・・。そう、ニック・ドレイクの『ホーン』だ。僕はたった今それを思い出したのだ。優しい響き。しかし、明らかに死の影が、そこには纏わりついている。美しいが、哀しい調べだった。あらゆるものの死を、それは悼んでいるようにも感じられる。この曲は実はずっと鳴っていたのかもしれないな、とふと僕は思う。あくまで僕が観察者に徹していなかったせいだ。そのせいで余計なことを考えてばかりいて、この小さな調べに耳を澄ませることができなかったのだ。
その曲は執拗に鳴り続けていた。終わったかと思うと、すぐに始めから繰り返された。グルグルグルグルと回り続けている、と僕は思う。誰かがこれを止めなくちゃならない。でも誰が? 蛇しかいないじゃないか? ここには・・・。
蛇は知らぬ間に部屋の中央に移動してきていた。なぜかひどく苦しそうにも見える。とぐろを巻き、かと思うと解いた。目に焦燥の色が読み取れるような気もした。気付くとお腹のあたりがぽっこりと膨らんできていた。まるで石を――あるいはそれに類した丸い何かを――呑み込んだあとのように。徐々に徐々に腹は膨らんでいった。今は鼓動はまったく聞こえなくなっていた。ただ少年のホルンの響きだけが、あたりを満たしていた。僕はただの観察者だ、と僕は思っている。でもそれでいいのだろうか? このまま何もせずにいて、本当にいいのだろうか? でもどれだけそんなことを思ったところで、僕には動かすべき肉体は存在しない。ただ蛇のことを見つめながら、時は過ぎていく。何かが間違っている、と僕は思う。でも何も、変えることができない・・・。
蛇人間、生まれる(8)へと続く・・・