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祖父の日記 012 昭和十六年を送る

昭和十六年を送る(馬公にて)

過去は総て早いものだ。まさか年の暮れを海上の輸送船の中で送ろうとは思わなかった。軍人であれば畳の上で死なれない立場にあるのだから本望とせねばならぬ。自分の一生の歴史として、今度此の境遇こそ本当に記念すべきことであろう。船腹に打砕くる波の音をききつつ此の草稿を認めるのも有意義なことである。此の馬公港へ来たのは十二月二十日、あれから丁度十日経っているわけで ある。新京出発前のころは吾々は多分新京に正月を迎えるのだという噂がもっぱらだったが、まさか海上で迎えるとは思わなかった。去年の今頃は恵山鎮で、俺が総大将になって小使の小山君の家で餅を搗いたものだった。あの頃、恵山鎮の鈴木分遣隊長が転勤して来た許りで、我々の餅搗きに大いに賛意を表し、自ら進んで手伝いされた。狭い勝手場に小さなセイロウを重ねて、モウモウ立つ湯煙りの中に阿部、小泉、渡辺、苅田、小中、佐々木君等が腕自慢の力一杯、ありったけの力を振りしぼって、杵で餅を搗いた。 そして搗き方の外に餅を千切るのも、粉の上に並べてまぶすのも、それはそ れは大した騒ぎ方だった。家の婆ちゃん、妻、それに娘まで 総動員でやった。あの頃吉野屋の仲居が気易くしていたので、夜遅くウドンを十二個だか振舞ってくれた。そしてとても例年にない豪勢な正月を迎えた。 忘れもしない正月の二日の出来事、あの児玉警防団長の家での失態事件、大正館の接待、そして内田先生、杉山さん、長白への遠征、白頭館、三笠会館、久芳さん宅、そして最後に自分の家へ警察の木村、佐藤、武田氏の来訪、おまけに清丸の事件で騒いだことなど。あれは自分が総大将になってやったことだっ た。 
正月がすぎて二月、三月は余り記憶に残っている事柄は少い。 只、 三月の初旬洪原での防演習があって、妻と娘と三人で威興に行き、帰りがけ洪原に寄って来た上、貝、昆布など預けて貰ったりした。 
四月はあの丁種学生の応試、見事に失敗して、まさかあれが俺の一生をこんなに迄左右しようとは思わなかった。このことについては余り考えたくもない。何故なら、努力の足らぬ上に人を憾んだりする感があったからだ。そして失敗すると急に内地への帰省、それも七年ぶりで義母と四人で全く夢の旅、朝鮮の温泉郷の風景が 忘られない。その上久しぶり帰省して俺の気持随分と変ったこと か。 
五月は義兄の死、恵山では小泉君の結婚とその仲介人、生れて始 めての月下氷人の役目は一寸照れくさかった。それから鴨緑江の魚釣り、内田先生、徳永さん、久芳さんとの交際、何れも年内に得た最大の収穫であった。 
六月は防空壕の構築、徳永さんの乗馬練習、八幡神社の造営奉仕作業、曹長への進級、転勤の噂、愈々七月の移動、そして盛大な送別会県人会の見送り、出発等全く目まぐるしい行事、送別の日の清丸事件、妻の立腹、余り良い想出ではない。 
威興に着くと同時に動員編制要員被命、その上官舎はなし、働く我が席もなし、一時は余り良い気持はしなかった。そして七月二十 八日軍服を避けて私服で征途へ、九州を送り巌島を見て大阪へ集合、 有子達にも逢えず二十三部隊に集結、中大江小学校での待機、宇品より出帆、 大連へ、大連から新京へ到着、 八、九、 十、 十 一、十二月の待機、その待機中従弟との邂逅、新京見物、 满映訪問、日曜外出、ロシア語受講、対ソ戦闘訓練、次女の誕生、 姉の養父の死、そして新京を離れ一路征途へ 
本当に目まぐるしい一年だった。 
そして最も重大なことは支那事変の進展と米英に対する宣戦布告、正に百年戦争への突入、日本が樹つか倒れるか、死か生か全く前古未曾有の出来事である。又の為兄も最后の応召へ、愈々男子が一身を国家に捧げ、天皇陛下の為、子孫の為に尽す可き秋が来たのだ。 白人の優越感を嬌め、日本の正しい世界平和建設の為、正しく聖戦に起ったのだ。既に国に捧げた生命、只如何に有効に最大限に働 かなくては、一にこれの心の持方一つである。そして自己の職命に全力を傾注することである。個人的に考えれば人間である以上、未練もあり愚痴も出る。然し之は巳を殺して公に生きる道に反する。 愈々明八時馬公を出港、何れに向わんとするか。何れの土地に我腕を振うか。思えば血湧き肉躍る。士気は船内にみなぎり、軍歌が何処からともなく聞こゆ、呼我等が前途は輝いている。行け!!! 昭和十六年よ、そして来れ光よ、そして戦え、正義の為に輝ける昭和十六年はあと二十四時間で逝く。 


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