日本のものづくりの原点
鉄砲の製作
鉄砲は、1543年に種子島に持ち込まれたとされています。このことは、以前書きました(1-3.西洋との最初の出会い)。島主種子島時尭は、2丁をポルトガル人から買い求め、1丁は寄贈、残った1丁を調べさせてその製作にとりかかります。その当時、日本には「ねじ」がなく、その模倣に相当に苦労したらしいです(出所:「火縄銃から黒船まで/奥村正二」P41)。すべての部品を作り出す技術だけでなく、鉱山から材料を入手し、それを仕上げ、かつ加工する技術がなくては、模倣とはいえ作ることができません。その当時から、それは存在していたことになります。
世界最高水準の金属にまつわる技術
「金・銀・銅の日本史/村上隆(岩波新書)」では、もともと地中に存在している金属の元を掘り出す技術(第1の技術)、そしてそれを形づくり、加工し、機能性を持たせる技術(第2の技術)として分類しています。そして、その両技術とも江戸期の日本は、世界最高水準に達していた(同書P142)と述べています。日本の「ものづくり」の原点は、数百年以上の歴史の上に成り立っているということになります。
和時計
西洋から、ゼンマイで動く機械式時計が日本に持ち込まれたのは1551年。国内に残る最古のそれ(静岡市久能山の東照宮に保存)は、1612年に家康がスペイン国王から贈られたものだそうです(出所:「時計の社会史/角山栄」P47)。この「ゼンマイ」も日本にはない技術でした。日本はそれも模倣して機械式時計を製作するのです。「(和)時計」とは、日本で作られた機械時計以上のことを意味します。日本では西洋式の1日を24時間で均等に割る定時法ではなく、季節によって変化する不定時法、つまり夏の時間と冬の時間が異なっていたため、それに合わせて改良を加えたものでした。
以下余談
種子島時休(1902〜1987)。前述の時尭の末裔の人物である。彼は海軍の技術大佐であり、日本初のジェットエンジンである「ネ20」の開発者です。日本初の鉄砲も、日本初のジェットエンジンも「種子島」の名前が大きく関わっています。
西欧諸国にとって、アジアの機械式時計の市場は清朝中国だけでした。不定時法の日本では、西洋式のそれは何の役にも立たなかったからです。したがって、それを輸出できる先は清朝中国のみとなったのです。清朝は、技術の模倣や改良はなく、「時を測る」という機能を無視し、単なる装飾品としてだけに価値を認めました。西洋から皇帝に対して贈られた夥しい数のコレクションがありましたが、美術品としての価値だけにとどまったのです(アロー号戦争によってすべて略奪にあう)。1910年においてさえ、裕福な中国人家庭に置かれた時計は、止まったままの単なる装飾品、婦人のもつ懐中時計も、時計としての機能ではなく装飾品としてだけだったらしい(出所:「時計の社会史/角山栄」P46)。
タイトル画像出所:国立科学博物館(https://shinkan.kahaku.go.jp/kiosk/100/nihon_con/S1/KA3-1/japanese/TAB1/index.html)
終わり