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暴支膺懲その2

昨日の記事の訂正

「支那人による在留邦人(日本人以外の欧米人も)に加えられる暴行、殺人、残虐行為から自国民を守るための出兵理由として、昭和初頭に盛んに使われた言葉です。「乱暴者を懲らしめる」といった意味です。」

昨日、こう書いてしまいましたが、正しくありません。正確には昭和12年7月7日深夜、演習中の日本軍に向けられた銃弾に端を発する、当初は「北支事変」、戦線が拡大されてからは「支那事変」に対処するための、日本国内からの出兵理由を、言い表したものです。訂正します。

この銃弾から、日本は昭和20年8月の敗戦まで、泥沼の戦いに足を取られることになるのですが、かの「東京裁判」においてですら、この銃弾を放ったのは一体どちらなのかは断を下していません。日本からではないのは、事実とされていますが、国民党軍だったのか、それとも共産軍だったのか、または地方軍閥軍だったのか、おそらく今でも確定はされていないと思います。

さしずめ今なら・・・

  1. 朝貢と畏敬の国(卑弥呼から倭の五王の時代/3〜5世紀)

  2. 模範と憧憬の国(遣隋・遣唐使から平安時代/7世紀から12世紀末)

  3. 先進と親愛の国(鎌倉から江戸時代/13世紀から19世紀後半)

  4. 対等と侮蔑の国(明治維新から昭和20年の敗戦まで)

昨日、歴史上の日本人の対中国観を上記のように紹介しました。今ならどうでしょう。

5.警戒と嫌悪の国(昭和60年から現在まで)

ではないでしょうか。私と同世代、もしくは上の世代ならが、「中華人民共和国」といえば、人民服を着て自転車にのる集団が、道路を埋め尽くしているといったイメージを共感できると思います。かつては、そんなイメージでした。とにかく貧しい国というイメージでした。

なぜ昭和60年?

この年の終戦記念日に中曽根首相が例年通り靖国参拝を行いましたが、これに、中国政府は突如として噛みついてきたのです。突然です。

ちなみにですが、昭和天皇は例大祭や、創建100周年祭(昭和44年)には御親拝されています。天皇陛下の御親拝は、昭和50年を最後として、今に至るまでありません。

日本の歴代総理は、8月15日を選ぶか否かは別として、戦後40年間は全員がその任期中に参拝していましたが、現在はみなさんご存知の通り・・・。

中国共産党は、それを外交カードとして突如利用するようになったのです。

「反日」の起源

先に述べたように、私が高校生くらいまでは「中国」はまったく、言の葉にものってこなかったと思います。眼中になかったのです。それが昭和60年以降、靖国参拝を外交カードに使うようになってきたのです。

極め付けは、平成元年の「天安門事件」でした。

ソ連が崩壊、それに続き東欧の共産主義国家が次々に、そのイデオロギーを下ろし始めます。そうして、平成元年(1989年)に「天安門事件」が起こりました。

事件後、当時の国家主席鄧小平は、共産主義というイデオロギーだけでは、国内の不満をそらすことはできない情勢に、国内統一のための新たな柱を打ち出す必要に迫られました。それが「抗日戦争」でした。日本との過去の戦争における、あることないことを、全て日本のせいにして、「愛国教育」という名の「反日感情」を植え付けるようになるのです。それが「反日」の起源だと思います。

終わり


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