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ムッシュー 寡黙なシェフ様。あなたの料理が、また食べたい。

10年以上前、夫と足繁く通ったフレンチのビストロがありました。

東京、三田の裏通り、カウンターだけの店内。そこは、シェフ一人が切り盛りする、小さなビストロでした。

シェフは、お世辞にも愛想の良いタイプではありませんでした。

予約の電話を入れても、名前も連絡先も聞こうとしない。お店に着くと、頼んだ数の席が確保されていて、「電話いただきました?」と聞かれるだけ。常に寡黙で、前菜からデザートまで一人で調理し、サーブも掃除も人の手を借りていませんでした。

ある日、フランス人夫のリクエストで、その店でホワイトアスパラを食べることになりました。ところが、ホワイトアスパラがフランスから入荷できなくなってしまった。

私たちの連絡先どころか名前も知らないシェフは、
”ムッシュー フォンセ(フランス人の旦那様)、
ホワイトアスパラが手に入りませんでした。ごめんなさい。”
と、フランス語で夫に宛てた手紙を書き、近隣マンションの郵便受けに手当たり次第、投函したのです。

これはお前のことか?
近くに住む知人のフランス人から夫に連絡があったのは、予約前日のこと。

知人の住むマンションに、偶然、シェフの手紙が投函されていたのです。フランス語の手紙と、ホワイトアスパラが食べたいフランス人という情報だけを頼りに、親切な知人が「もしかして・・」と夫に連絡をくれたのでした。

とても必死で、信じられないくらい無謀な手紙でした。でも、なぜだかとても笑ってしまった。と同時に、シェフが調理したホワイトアスパラが食べられないことを、心の底から残念に思いました。

そんな不器用に見えるシェフの料理は、驚くほど丁寧で、こだわりがあって、飽きることがありませんでした。この店のフランス料理が一番好きだ、というフランス人の友人も多くいました。

HPもない、広告も出さないこの店は満席になることが滅多になく、私たち常連にとってはとにかく居心地が良い場所でした。シェフは、料理だけに集中したいかのように、黙々と、私たちに美味しい料理を振る舞い続けてくれました。

「美味しかったです」と声をかけると、「ありがとうございます」と、少し照れてうつむきながら、嬉しそうにしていたシェフ。


そして、5年くらい前、その店は突然閉店しました。電話が繋がらないことを不思議に思い、その店の前まで行って初めて、店がなくなったことを知りました。

閉店の理由も、今そのシェフがどこにいるかもわかりません。ただ、どこかで料理を作っているはずだと、それだけは確かなことのように、思うのです。


ムッシュー、寡黙なシェフ様
あなたは今、どこで、料理を作っていますか?
あなたの料理が、また食べたいです。


私の手紙は、あなたに届くでしょうか。




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