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『思考の整理学』ー教え惜しむことが、子供の学ぶ力を育てるとしたら

昔の塾や道場は、入門してもすぐ教えるようなことはせず、毎日薪を割ったり、水をくませたり、あえて教え惜しみをする。

惜気なく教えるのが、実は賢明ではないことを知っていたという。

師匠が教えようとしないのならば、なんとかそれを盗み取ろうと考えた弟子は、自分で新しい知識、情報を習得する力を持つようになるんだそうです。

外山滋比古著『新版 思考の整理学』

知のバイブルと呼ばれている本を、大人になってやっと手に取りました。


長い子供の夏休み、私にはやや修行のような、手腕が問われる2ヶ月です。

子供にとって少しでも「有意義」な休みにしたい。周囲の親同士も協力し合って、子供の「夏休み」を乗り切ろうとする。

あっちのサマースクールが良いらしいとか、こっちでは子供を長く預かってくれるとか。夏の間はテレワークにして送り迎えのオペレーションもばっちりで、時には、林間学校に付き添うなんて話も聞いたり。

そういうことが出来れば子供に一番良いのだと、親同士は情報交換しながら、益々空白を生まないように頑張ろうとする。今年もこんな風だった、のですが

気分転換のつもりで読み始めたこの本の「教え惜しむ」という表現の意味するところに、グサグサきています。


いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。(中略)学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存を育てる。

この本の初版が刊行されたのが1983年
それから40年後の今の時代

ネット検索の仕方さえわかれば、大抵の情報を知り得てしまう時代。集中して何かを学習しようとする意欲が、以前よりずっと持ちにくい世の中かと思います。

私が目指していた子供にとっての「有意義」な時間というのは結局なんなのだろうかと、自問する。

出来うる範囲でベストと思う環境を親が整備しても、必死にお膳立てしたとして、有意義なのは、対 親の自尊心か。

子供の他者への依存心をスクスクと育てているだけだとしたら、むしろ止めた方が良いのではと思えてくる。


我が身を振り返ってみれば歴然で、自分への憤りすらジワジワ感じたりもしています。

学生時代はフワフワと遊び回っていた癖に社会人になってから「学び直し」だと、仕事の傍ら急に火がついたように勉強を始めたりして、そんな「向上心」にウットリしていたのが何だか恥ずかしい。

学べる環境が整備された中では大して学ばずに、学べなくなってから必死で学習しようした。

あぁまさに、この本に書いてあることだった。


改めて子供のことを一歩引いて見てみれば、

親が「大事だ」と印をつけたことは覚えないくせに、洋楽一曲分の歌詞を、ペロっと覚えてしまったりする。好きなこと、知りたいことなら、脳が無限の力を発揮するらしい。であれば、

環境整備に自己満足せずに、好きなこと、知りたいことに出会うのをそうとは知らずに応援してあげる。そんな風にあってみたい。

知のバイブルと呼ばれるこの本を、大人になってやっと手に取った。遅すぎるということはきっとない。

子供のため・・ではなく、自分自身のための覚書

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