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差別への鎮魂歌(レクイエム)
noteを読んでいて、ある若者の「自己紹介」に目がとまった。「在日コリアン」だという。
ふと気がつけば、私は「在日」に好きな人が多い。作家ならつかこうへい、経営者なら孫正義、サッカー選手なら鄭大世。他に名前が挙がるわけじゃないけれど、それぞれの分野で一番と言っても過言ではない。だからやっぱり、私は「在日」が好きなのだと思う。
「在日」が好きだという事実には、少し葛藤もある。単に差別意識の裏返しではないのか、と。「在日」と差別が切り離せない以上、「私は差別主義者じゃありません!」と主張したいがための「在日好き」ではないのか――そんな疑念が頭をよぎる。
いや、そんなことはない。そもそも、私はリアルに「在日」と対峙したことがないのだ。中学の同級生に「在日」の子がいたと知ったのは、卒業してからずいぶん経ってからのこと。その彼女と特別に親しかったわけでもなく、ケンカをしたことがあるわけでもない。じゃあ、なんで「在日」が好きなんだろう――そう考え続けているけれど、よく分からない。
「在日差別」の象徴とも言える某レイシストと、自分が同い年だと知ったのは、つい最近のことだ。そんな同級生の尻拭いの意味も込めて、差別というものについて考えてみたいと思う。そう。「在日」のことはよく知らないし、分からない。だからこそ、「差別」そのものについて考えてみたいのだ。
差別を考える上でまず重要なのは、人が他者を理解するときにどうしても「わかりやすい象徴的理解」に依拠してしまう点だ。国籍、人種、性別、年齢、外見――こうしたラベルは、情報過多な世界で素早く状況を把握するための認知的ショートカットであり、これを完全に消し去ることは不可能だろう。
ステレオタイプ的な認知がどうしても避けがたいのは、私たちの脳が限られたリソースで大量の情報を処理しなければならないからだ。問題なのは、そのステレオタイプな理解が社会的な権力や資源の配分と結びつくことであり、それが結びついた時、「差別」という不当な扱いへと転化してしまうことだ。このとき、ステレオタイプは無害な便宜上のラベルから、制度的な格差や攻撃的な排除を生み出す危険な差別行為へと変貌する。
ここが最初のポイントだ。ステレオタイプ、すなわちある種の差別感情を持ってしまうこと自体は、人の認知の特性上、避けられないことなのだ。しかし、その差別感情が具体的な「差別」という行為に転化してしまうことは、厳しく批判されなくてはならない。ところが「差別をなくそう」というスローガンが登場して、事態は混乱する。
「差別をなくそう」というスローガンは一見正しい。しかし、それが「差別感情を根絶できる」という錯覚を招くなら、かえって人々が自分の内面に潜む差別感情を直視せずにすむという、そんな危険性がある。性欲や食欲と同様、ステレオタイプ的認知は不可避な要素で、これをゼロにすることはできない。達成不可能なゴールを掲げれば、「自分は差別と無縁だ」と思い込む自己欺瞞が生まれ、当事者意識は失われていくだろう。
では、どうすればよいのか。その鍵は「認知の解像度を上げる」ことだ。人を単一のステレオタイプで理解するのではなく、複数の側面や特徴が複雑に絡み合う存在として捉えようとする努力が、差別的な行為を正当化しにくくする。一人ひとりは多面的であり、単純なラベルでは説明しきれない。
ステレオタイプな認知が避けられないと認めながら、「認知の解像度を上げるべきだ」と主張するのは矛盾に聞こえるかもしれない。だが、私はこれを矛盾だとは思わない。他者を深く理解するには手間も時間もかかり、そのコストは無視できない。正義を実現するためには、コストがかかるのだ。
ここまで述べてきたのは、差別をなくすための個人に求められる努力についてだ。しかし、差別は社会全体の問題でもある以上、社会に求められる役割も当然ある。「コスト」をすべて個人に負担させることは、現実的ではないからだ。
他者理解への解像度が低いのは、単に認知能力が不足しているという場合もあるだろうが、それだけではない。経済的な困窮や、精神的に疲弊している者にとって、その「コスト」を引き受ける余裕はないだろう。あのレイシストも、もしかすると不遇な境遇に苦しんでいたのかもしれない。
差別は構造的な問題であり、不遇な人がいる限り決してなくならない。そして、その不遇な人々に「他者理解のコストを払え」と求めるのは、やはり酷な話だろう。だからこそ、あのレイシストでさえ、私たちは社会の中に包摂していかなければならない。
一方で、差別やヘイトスピーチを受けた側からすれば、レイシストを含めた包摂など「冗談じゃない」と感じるのも当然だろう。それでも、差別をなくすということは、綺麗ごとでは済まない。ヘドロを片付けていく、まるでドブさらいのような作業なのだと思う。
以下はChatGPTによる補足です。著者はファクトチェックをしていません(できません)。あしからず。
【脚注】(参考文献・研究事例)
(1) 社会心理学者ヘンリー・タジフェル(Henry Tajfel)は、「社会的カテゴリー化」(social categorization)や「最小集団パラダイム」(minimal group paradigm)によって、人間がわずかな基準で集団境界を引き、自集団を有利に扱う傾向を示した研究を行っている。
参照:Tajfel, H. (1970). Experiments in intergroup discrimination. Scientific American, 223(5), 96–102. および Tajfel, H., & Turner, J. C. (1979). An integrative theory of intergroup conflict. In W. G. Austin & S. Worchel (Eds.), The Social Psychology of Intergroup Relations (pp. 33–47). Brooks/Cole.
また、認知科学や社会神経科学の分野では、脳が限られた認知リソースで大量の情報を処理する際、素早いカテゴリー化やステレオタイプ的判断が起こりやすいことが示唆されている。
参照:Macrae, C. N., Milne, A. B., & Bodenhausen, G. V. (1994). Stereotypes as energy-saving devices: A peek inside the cognitive toolbox. Journal of Personality and Social Psychology, 66(1), 37–47. および Fiske, S. T. (2004). Social Beings: A Core Motives Approach to Social Psychology. Wiley.
(2) 人種プロファイリングと制度的不平等に関して、アメリカでの黒人・ラテン系住民が警察による不当な取り扱いを受けやすい例がある。
参照:Alexander, M. (2010). The New Jim Crow: Mass Incarceration in the Age of Colorblindness. The New Press. および Goff, P. A., Jackson, M. C., Di Leone, B. A., Culotta, C. M., & DiTomasso, N. A. (2014). The essence of innocence: Consequences of dehumanizing Black children. Journal of Personality and Social Psychology, 106(4), 526–545.
(3) 日常的な無意識下の分類において、脳がヒューリスティック(経験則)を用いて判断を単純化し、ステレオタイプを強化しやすくなる状況がある。
参照:Kahneman, D. (2011). Thinking, Fast and Slow. Farrar, Straus and Giroux. および Nisbett, R. E., & Wilson, T. D. (1977). Telling more than we can know: Verbal reports on mental processes. Psychological Review, 84(3), 231–259.
(4) 歴史的・政策的事例として、南アフリカのアパルトヘイトやアメリカのジム・クロウ法があり、法制度において人種的ステレオタイプが不平等を正当化していた。
参照:Fredrickson, G. M. (1981). White Supremacy: A Comparative Study in American and South African History. Oxford University Press. および Woodward, C. V. (1955). The Strange Career of Jim Crow. Oxford University Press.
(5) 雇用差別の実証研究として、Bertrand & Mullainathan (2004) のフィールド実験がある。これは、白人的に解釈される名前と黒人的に解釈される名前の応募者で面接への呼び出し率に明確な差があったことを示す研究である。
参照:Bertrand, M., & Mullainathan, S. (2004). Are Emily and Greg More Employable than Lakisha and Jamal? A field experiment on labor market discrimination. American Economic Review, 94(4), 991–1013.
類似の研究では、スウェーデンにおいて民族的背景による労働市場での差別が指摘されている。
参照:Carlsson, M., & Rooth, D. O. (2007). Evidence of ethnic discrimination in the Swedish labor market using experimental data. Labour Economics, 14(4), 716–729.
『差別への鎮魂歌(レクイエム)』というのは、もう30年近く前になるけれど、その後教員になった友人が、卒業論文として提出したテキストのタイトルです。担当教官から「うーん、熱い気持ちは分かるんだけどね。ちょっとこれは…」と言われ、危うく落第するところを土下座して単位認定してもらった、という逸話があります。それをふと思い出したので、今回のタイトルにしました。