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「相対化」とは「離れること」ーーライター活動を再開して、今後取り組みたいこと 【#55】


濃い紐帯のつながりで生かされている

日本に帰ってきてから一週間強が経過し、おかげさまで目まぐるしい日々を過ごしている。

ケニアのサウナには水風呂がなかったので、水風呂があるだけで、「飛ぶ発射角度ここまで違うか」驚く。

さらっとモメンタム・ホースを再始動してライター活動を再開するとポストしたら、想定以上にたくさんのお仕事の相談をいただいた。ブランクがあるのに、ただただ、ありがたいかぎりだ。疑いの余地なく、社会関係資本によって生かされているのを実感する。

毎日人に会いまくっている。今は活動の羅針盤を定める期間なのかもしれない。もちろん読書は大好きだけど、刺激をくれる最強の媒体はやっぱり「人」だ。

体内に残ってるアルコールをすべてデトックスし切って、頭を空っぽにして、晴れ渡る草原に寝転び、『空はまるで』を聴きたい。

長らく遊軍的な生き方をしているので「弱い紐帯のつながり」理論が言わんとすることは体感としてわかる。一方で、人生を支えてくれるのはどこまでいっても広くでなく狭く、薄くでなく濃い紐帯のつながりなのだと思う。今も昔も、声をかけて、手を差し伸べ続けてくれる人たちが同じと気づいた。

「相対化」の本質は「離れること」にあるかもしれない。遠いケニアの地で晴耕雨読したことで、気づけたことがたくさんある。日本という国、自分が取り組むべき仕事、家族や友達…。手放してみて、距離をとってみて、当たり前が当たり前でないことを知る。命も才能も、思いやりも有限だから美しい。

なんでもかんでもタクシーで移動するんじゃなくて、あえて散歩するのいいな。そもそもケニアで暮らしていたときは治安上、徒歩で外を移動することができなかった。どの時間帯、どの場所でも、安全に歩ける日本は天国だ。とはいえ、ちょっと治安が悪い方向に進んでいるのもひしひしと肌に感じる。

海外の歯ブラシ「でかすぎるだろ」と思ってたけど、数年ぶりに日本で歯ブラシ買ったら「小さすぎるだろ」ってなった。人間の細胞が1年もしないうちに全て入れ替わるように、日常的な価値観の層も数年で更新されるんだな、とふと思った。

ライター活動を再開気づいたアレコレ。今後やりたいこと

依頼されたお仕事に手をつけてみて、気づきの機会もあった。自己理解と他者評価を総合して煎じ詰めると、自分は「編集」ではなく「ライティング」の人間なんだろうな、と結論に達しつつある。

言葉の仕事は広い。自分はたまたま本をはじめ読み物を書く仕事をしているけれど、もっとケイパビリティの当て込み先を拡張したい。その一つにコピーライティングがあるんだろうけど、大企業というより、個人やスタートアップの魅力・価値のコンセプトづくり、言語化に興味がある。

出版エージェントの大先輩とMMV周りの新しい事業コンセプトを考案し、そちらも事業化できるよう練っているところだ。個人的にキーになると思っているのは「策定」ではなく「継続」にフォーカスすること。つまりコンテンツ発信やストーリーテリングを通じて、定着・浸透させるところに伴走するパートナーは経営者からニーズがあるのではないかと踏んでいる。

ライティングにかかる時間の長さは、内容の難易度よりも原稿フォーマットに慣れてるかどうかな気がしてきた。たぶんこれはあらゆる職業に言えることだな。スキルの中にも細かなコツの要諦の違いがあるよね、って話。

エナドリがないと原稿が書けない身体になってしまった。

文字起こしは基本アウトソーシングするけど、内容の難しいものに関して自分で起こすと、原稿化のスピードが早い。話の流れが頭に入るので構成の見通しがつけやすいし、原稿に落とす際もスラスラとパズルを組み立てられる感覚がある。とはいえ、基本は任せないとパンクするので、あくまで難易度で判断。

ライターの醍醐味として、一線で活躍する人々に取材できるのに加え、いろんな編集者の方々とタッグを組んで多種多様な編集術に触れられるのもある。自分のバックボーンとしては、駆け出しのときに、全然タイプの違うダイヤモンド社の横田さんと現サンマーク出版の多根さんに育ててもらったと思ってる。

仕事を通じて取材をさせてもらった人や編集者の人と仲良くなることはよくあるんだけど、職業ライターの友達って少ないかも。でも考えてみたら当たり前の話で、自分がライターだからライターの人と仕事することって案外少ない。自分はビジネス管轄なので、異分野のライターと知り合いたい。

講座をやるかもしれないので、自分なりにブックライティングの工程と要諦をメモにまとめてみた。【形にする】部分のスキルとしてのライティングのHOWに着目されがちだけど、それはあくまでテクニックであって、重要なのは工程の根っこの部分に宿るかなと思う。知の筋トレこそが本質な気がする。

原稿化では、まず文字起こしを削ぎ落としつつ、構成に応じて残す素材の取捨選択がある。「という」とか「ような」の口語的な鱗=冗長性を排する作業を経て、論理を保ちながら並び替える。その過程で圧縮が重要となり、この技術は教科書化するのが難しく、言語運用力そのものに拠るところが大きい。

【仕事の前提】
>前提の教養(この仕事は知の総合格闘技である。日々触れるすべての情報が血肉となる。なのだから、目にするもの、耳にするものを情報として認識するメタ的な思考を日常的に習慣として身につける必要がある)
→つまり、アウトプットとインプットは分かれない。
>フォーマットを理解する(本なのかウェブなのかといった情報媒体はもちろん、その中身の個別形式をまずは抑える)

【準備する】
>調べる≒当たりをつける
>企画的仮説(持ち玉≒武器を増やす)

【取材≒素材集め】
>聞く
>引き出す、転がす
>理解(コンテクストを見逃さず、拾い切っていく)
>解釈
>設計の骨組みを見通す

【形にする】
>書く(論理をつなぐ)
>言い換えながら、コンテクストを補う(前工程とのリンク ※この部分がめちゃくちゃ重要)
>並べる(1周目で配置や取捨選択にこだわりすぎない)
>コンセプトを埋め込む
>立体化させ、構造化する

(今、絶賛依頼をくれた出版社の方々と講座内容を練っているので、正式に決まったら告知します。そもそも講座の前にプロトタイプ的なエッセンスをnoteにまとめて書き出すかもしれません)

そもそも本が好きすぎるので、大前提として本を書く仕事ができることは幸せだ。くわえて今後は、読書そのものを広げていけるような活動もしていきたい。なので頭の中にあるアイデアを一つずつ動かしていく。ある媒体で、著者の方々にディープインタビューしながら対話的に「現代に読書をする意味」を探求していく新連載を立ち上げることが決まったので、そちらも追って。絶賛仕込み中です。

執筆している本に関してはほとんど目処が立ってきたので、順次蹴りをつけていく。原稿という名のデッドリフトを上げ続け、筆力という名の筋肉をコツコツと身につけていきたい。編集の方々に感謝の気持ちを忘れずに。

読んだ本:『じぶん時間を生きる』と『コンセプトの教科書』

『じぶん時間を生きる TRANSITION』完全に自分の本として読めた。本や映画は触れるタイミングによって受容できる質が決定的に変わる。生産性の奴隷的に働き通し、ぶっ倒れてケニアで晴耕雨読の生活、そして今また東京に戻ってこれたこのタイミングで生き方を自省しながら読書できた。

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