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寒すぎるナイロビでの執筆活動 【#51】

最近、ケニアというかナイロビが寒すぎて戸惑っている。指先がかじかんでタイピングに支障が出たので、今年の一月に韓国で着込んでいたダウンを引っ張り出し、それを着ながら原稿作業に取り組んでいる。

前回のnoteで近況報告したように、今月に入ってからライター/編集仕事にフルスロットルで取り組み始めた。「働いてもお金が取られない世界って素敵」と、ポーカー生活から離れて、そんな当たり前な、素朴なことを思った。10時間も稼働して大金を持っていかれる世界線はやはり萎える。どこまでいってもキャッシュゲームにはそれが付きまとうから、ポーカーは趣味にとどめて、たまにトーナメントに出かけるのが勝ち組のムーブだろう。

ケニアにいても、淡々と取材して普通に本作れると実感する。とにもかくにもライター・編集者の至上の特権はあらゆるジャンルの一線級の方々に取材をして、その思考と知見にダイレクト触れられること。もちろんすでに有名な方々に話を聞くのもエキサイティングだけど、メディアでは名前を知られていない業界のフィクサーに話をうかがうのも絶大なる醍醐味。

起業家の方の話がおもしろいのは、自分の中で明確に言語化されたビジョンがあるからに他ならない。テクノロジーの変化もビジョンに照らして思考し語るから、未来の社会像の解像度が高い。逆にビジョンなくして、ポジションの取りようがない。

今週だけで堀江貴文さん、茂木健一郎さん、Voicyの緒方憲太郎さんに取材をさせていただき、自分のなかでChatGPTによって変容する未来の社会への解像度が上がってきた。スピード感を持ちつつ、咀嚼しながら原稿に落とし込んでいきたい。

人間がChatGPTより圧倒的に有利だと思うのは、統計的確率から自由なこと。バイアスにまみれた私的すぎる体験と主観こそがユニークネス。いよいよ合理がコモディティとなり、不合理にだけオリジナリティが帯びてくる。いずれまた不合理が合理に転換し回収されるのだとしても、人間は挑戦のプロセスに生きがいを見出すことができる。最大公約数的な情報よりも、ノイズこそが価値になる時代が来ると思う。

漫然とライターをやるより、ある程度自分が興味のある分野の旗を上げて(依頼にもつながる)、アンテナを張っておく必要がある。自分は変わらずスタートアップ、テクノロジー周りに関心がありつつ、最近だと科学社会論、生成AI、量子コンピュータ、メンタルヘルス、投資一般、孤独社会、働き方辺りが気になってる。

20代までは「自分がどうなりたいか、何を成し遂げたい」ばかり考えてた。 30代になってからは「何があってもこの人を助けたい。この人のためなら身を粉にして自己犠牲できる」と心の底から思える人に、残りの人生で何人出会えるか、関係性を築けるか、それこそが人生の醍醐味な気がしてきた。

ガートナーのハイプサイクルってそっくりそのまま、というわけではないが人生にもそのまま当てはまったりすると思う。一回性の人生のなか、希望と絶望の螺旋階段を登りながら、知らなかったことを知り、生き方を見つめ直し、それでも生きていかなくては、をひたすら繰り返す感じ。

選べるもの、選べないもの

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