見出し画像

仕事の醍醐味は“憂鬱”を“至福”に転換すること 【#52】

『深い森』を聴くと、じぇいそるchで一ヶ月カジノ生活してた記憶が完璧にフラッシュバックする。

ゴールが見えない原稿ほどクリエイティビティが問われる。後から振り返ると、憂鬱こそ至福なのかもしれない。解の見えない高い山を前に、「果たしてこの山を自分は超えられるのか」立ちすくむ。だからこそ、筆が乗ってきてゾーンに入ると、心が晴れやかになる。

ごくたまに、大学院でインテンシブに学んでいたときの知識というか構造的に情報をフレームして捉える思考が生かされてる気がする。点と点を文脈にとって整理し、体系として立体的に理解すること。とくに長大な分量のコンテンツに取り組まなければいけない場合、こうした構造思考がライターにとっての構成力の源になり得るのではないか。

本を書き進めていくのと同時に、文章がデザインにはめ込まれていくプロセスが昔から好きだ。まさにプロダクトが作られていくプロセスを体感できる。どこまでいっても本づくりは著者、ライター、編集者、デザイナーによるコラボレーションなのだと実感する。

書籍原稿をゴリゴリと書き進めながら、並行してイベントレポートを6本しばき倒す。人差し指と中指が腱鞘炎気味なので、適度に休息を取りながら。

仕事が立て込んでいるときこそ読書を。脳が沸騰状態だから、その時々に引っ掛かりのあるスタックしたポイントで、アイデアが創発しやすかったりする。読書から発想が膨らみ、停滞していた原稿部分のブレークスルーになることも少なくない。悶々としているくらいなら、別の出口に解は意外と転がっているのかもしれない。

コンテンツ制作を通じて、自分が知らなかった分野に関心を抱くようになる。思えば自分がテクノロジー全般にのめり込んでいったのは、大学院生のときに日本テレビのWebメディアに関わらせていただいたからだ。未知の領域に足を踏み入れることの恩恵は、たんに新しい知識を仕入れられるだけではなく、もう一段階上の抽象のフレームワークを手に入れられることになる。当該分野の人と話すときの共通言語を持つことで、取材のレベルは格段に上がる。

そういえば、ひさびさに日本に帰る日程が決まったので、ひさびさにお会いしましょう。

ここから先は

1,394字
この記事のみ ¥ 500

ケニアで無職、ギリギリの生活をしているので、頂いたサポートで本を買わせていただきます。もっとnote書きます。