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ニュースを聞いて10を知ったような気にならないで欲しい、私が。(4/7)
高度に発達したインターネット環境は、時として利用者にある種の万能感を抱かせることがあります。
同種の言説として、ググれないものはこの世に存在しないことと同義、というものもありますが、いずれも「インターネットを介して情報を得る」ということが現代の人類に与えられた「進化」である一方、時として「退化」でもありうるのです。
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この情報社会においては、あまねく世界の様々な情報が、湯水のように手元にそして耳元に流れ込んできます。
一昔前であればテレビから溢れ出していたそれは、インターネットを介する事により個々人の様々な感情をも付加され、膨大かつ共感性を伴って(よりパーソナルとなった)受け手を直撃するのです。
その結果、本来自分では知覚し得なかった事を「疑似体験」する。
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例えば、関東に住む私が大阪の感染状況の速報に接する時、その急速な増加に不安になり、焦り、落ち着きを無くすのです。
そこには「明日は我が身」という気持ちも多分に含まれつつも、一方でそれが「今、自分が置かれている状況」であるという気持ちが拭えない。
だからと言って焦ってみても、結局私にやれることは「いつも通り、自身が気をつけること」から何も変わらないのに。
変わらないのに、押し寄せる情報に肩までどっぷりと浸かっていると、必要以上に自身が当事者であるかのように感じてしまう・・・この高いシンクロ率による弊害を被っているのは、決して私だけでは無いと思うのですが。
更によろしく無いのが、この弊害を被る事により「体験」をするということに対する抵抗感が生まれて来つつあるということ。
「疑似体験」が「実体験」を阻害する、そこはまるでMatrixの世界。
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かかる状況に至り、つくづく「情報過多」は退化でもあるのかな、と思うこの頃なのです。
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