三つ子の魂からやり直したい私。
来世生まれ変わるなら、キチンとした人間にしてもらいたい。
欲を言えばキチンとしていて賢い人がいい。
もう少し希望が通るということであれば大金持ちの家の犬がいい。
しかし現世の徳の積み具合を考えるとロクなもんじゃないので犬は諦めることにし、せめて来世くらいはキチンとした人間として生き、立派に死んでみたいものだ。
私は幼少期より怠け者で面倒くさがりのくせに、怠けるための努力は惜しまないという残念な向上心の持ち主だった。
小学生の夏休み、ラジオ体操に行くギリギリまで寝られる方法はないかと考え、次の日に着る洋服を着用し、ラジオ体操カードを首からぶら下げたまま就寝し、起きてすぐ集合場所へ行けるという作戦を編み出した。
しかしすぐにシワシワの服とヨレヨレのラジオ体操カードを母に発見され、大目玉をくらいあっけなく終了した。
ちなみにこれは10年後に高校の制服で全く同じことをしてもう一度母に叱られることになる。喉元すぎても決して熱さは忘れてはいけない。
1番古い記憶だと、小学校一年生に遡る。
当時私はやんちゃ過多で、クラスの男子から脳天に渋柿を投げつけられた仕返しに、掃除用のホウキを相手の尻に振りかぶったりしていた。
今なら一発退場、あの子と遊んではいけません人物である。
しかし幸いなことに人生初の担任がとても優しいおばあちゃんのM先生だった。
怒っているのに何故か怒られた感じがしないレベルのソフトな声量で、いつも私たちの暴れっぷりをなだめ、優しく見守ってくれていた。
つい先日まで園庭を駆け回る保育園児だったので、多少の集中力は無いにしても、私にはまず勉強というものが性に合わなかった。
そこで私はいかに勉強せず授業を乗り越えるかに尽力し始めた。隣の子に話しかけたり、ノートに絵を描いたりして、全く授業を受ける態度ではなかった。
さすがに業を煮やしたM先生から私は廊下に立つように言い渡された。
ついでに斜め前で一緒に喋っていた男子も立たされた。
各クラスから先生の授業の声が聞こえる中、廊下に立たされた私は全く反省の色を見せず、一緒に立たされていた男子にのんきに話しかけたりしていた。
M先生に秒で見つかり追加で怒られた私達は、さらに立ち時間も追加された。
そして授業が終わり、クラスの皆んながワラワラと廊下に出てきた頃、先生は呆れつつも優しい表情で、「疲れたでしょ?これからは授業中に関係のないお話しするのはやめて、先生のお話ちゃんと聞ける?」と私達に反省を促した。
「はい、もうしません。ごめんなさい。」
一緒に立っていた男子はすぐに謝罪し、そそくさとサッカーをしに駆け出して行った。
しかしこの後の授業もできれば受けたくないと考えたバカ私は、素直にあやまる=次の授業から勉強しなければならない。が勝ってしまい、
「今の自分はもうしませんと思っているが、これから先の自分がどう思うかは保証できない。」
といったような内容のことを言った。
大阿呆である。
生徒への慈悲が木っ端微塵に砕け散った瞬間、
M先生はものすごく冷たい声で「もう1時間立ってなさい。」と言い捨て去っていった。
要望こそ叶ったが、優しい先生のあんな冷たい表情を目の当たりにし、この時初めて余計なことは言うもんじゃないなと学んだ。
その後も中学で1番ゆるい運動部という理由で水泳部に入部したり、風呂で宿題をして教科書をシワシワにしたり、生まれつきドがつく直毛なのに、「寝癖がつかないんだよ!」という友達の一言だけに反応し、美容室で大金を払いストレートパーマをかけたりと、怠けるためにせっせと“なま活(なまけるための活動)”をしていた。
そんなある日、母が私の保育園時代の絵本が出てきたと見せてくれた。
絵本とは言ったが、厳密にいえばバースデーカードの絵本版のようなもので、ページをめくるたびに、“としのかずだけろうそくにいろをぬりましょう”とか“おとうさんおかあさんからのことば”とか各ページに書き込んで完成させるタイプのものだった。
私が丁寧にクレヨンで塗った4本のろうそくのページや、母からの誕生日メッセージなどを読み、こんな素直でかわいい自分だった時もあったんだな…とこみあげるものがあった。
最後のページには、左下にかわいいこぐまがベッドですやすや眠る絵と、こぐまが見ているであろう夢の絵が吹き出しになり、夜の空にいくつも浮かんでいた。
夢の絵にはお医者さん、ケーキ屋さん、パイロット…などがあり、その右下に“おおきくなったら〇〇になりたいです。”と書かれた一行があった。
それは園児が先生に将来の夢を言い、先生が〇〇の部分を代筆してくれる部分だった。
「やっぱりアンタは小さい時からアンタじゃわ。」と母にため息をつかれた。
〇〇の部分には先生の字でデカデカと“くま”と書いてあった。
4歳の私は、大人になってもベッドですやすや眠るつもりだったに違いない。