あたす。
ちょっと変わった私の家族の本当にあったうそみたいなおはなし。
吾輩は下戸である。父方の血だ。 吾輩の妹はザルである。母方の血だ。 別にこんな漱石みたいに言うことでもないのだが、桜の季節になるとふと思い出すことがある。 我が母方の一族は明るくひょうきんであり、ほぼ全員大酒飲みである。 盆暮れ正月に集まれば賑やかに飲み・食い・喋り、冬に鳥取のカニが手に入ったとあらばそれをあてに日本酒の一升瓶を何本も開け、夏に花火大会とあらば外でバーベキューをしながらビールをあおり、下戸の私と叔母(母の妹)はいつも足りない酒を買いに走らされていた。(前記
我が家ではかつて犬を飼っていた。 名をコロという。”マルチーズ風”という謎の犬種をお母さんからあてがわれ(前記:なんとなく…コロ参照)15歳でこの世を去ったが、亡くなる当日の朝も、4足自力で散歩に行っていたくらい健康で大往生な犬だった。私はコロが大好きだった。 しかし大好きだからといってきちんとお世話をするのかといえば否。自分たちが懇願して飼い始めたくせに肝心の面倒は見ない。小学生あるあると言えばあるあるだが、最後まで飼うことを反対していたお母さんからしたら大変腹立たしかっ
私もそこそこよいお年頃なので、親戚や知人、色々な人たちの最期を見届けてきた。 悲しいお通夜、涙なみだのお葬式。 亡くなった本人がどんなに老衰で天寿を全うしようが、闘病の末の完遂の人生であろうが、見送る側はいつだってもう会えないんだという喪失感と、行き場のない寂しさを空中にフヨフヨと漂わせながらこの日々をやり過ごす。 数年前、私の大好きだった大叔母が亡くなった。半年間の闘病の末、彼女を慕う大勢の親戚に見守られながら病院で静かに息を引き取った。 私の母方の祖父の妹である大叔
「どんなことがあろうと人の道に反することはしたらいけん。お天道様は必ず見とる。」 これは93歳でこの世を去った私のおばあちゃんの教えである。 おばあちゃんは面白いことが大好きで、めちゃくちゃブラックユーモアの持ち主であったが、根本的な部分はとても真面目な人だった。 それを表すかのようにいつも口酸っぱく孫の私達に言っていたのが冒頭の言葉である。 ちなみに「一発やられたら二発やり返すまで帰ってくるな。何でも倍にして返してこい。」 という昭和初期特有のストロングスタイルな教え
私のおばあちゃんには昔から長所ゆえの短所があった。 効率を重視する割にきっちりしないと気が済まないので、いつもマルチタスクに追われ、そのせいでうっかりを発動し、結果大惨事となる。 土間の台所で煮ものをする間、裏庭で薪をきっちり同じサイズに割りながら、鍋ごと灰にする。 こだわりの二層式洗濯機に水を溜めながら掃除機を隅々までかけるので、風呂の脱衣所が浸水状態になる…細かいことまで挙げればキリがないほど、なかなかのデンジャラスばあさんなのである。 ここで言っておきたいのだが、決
自分で言うのもダサいのだが、私には妹の鉄板ネタがある。 「私2つ下の妹がいて〜」 「へぇ〜。」 「金髪で、いつもグレーかオリーブ色のカラコンしてて〜」 「うんうん。」 「耳のピアス9個くらいあいてて、何なら鼻ピもあいてて〜」 「へ、へぇ…」 「腰一面にでっけー蓮の刺青入ってて、人見知りで寡黙なんです。」 「…妹さんて何されてるの?」 「介護福祉士です。」 「ええぇぇぇ!?」 …コレである。 どれだよって思った方がいたら申し訳ないが、私はコレで打率8割の驚きと笑いをゲット
春の風がそよそよと心地よいこの頃。 5月生まれの私はこの陽気な季節が大好きだ。 しかし5月だったからこそ忘れられない出来事というのもある。 私の通っていた小学校はど田舎の過疎地で、ちょっと油断するとすぐに1クラスになってしまうようなギリギリの生徒数で、保護者の人達も同学年なら全員顔も名前も一致するような小さな規模の学校だった。 もちろん中学受験などする者はおらず、みんな同じ公立の中学校へと進むのが当たり前だった。 そしてみんな仲良く一緒に中学生に進級するのだが、そこは思春
あたくしの名前はコロ。犬・享年15歳。 正式名称はコロ助なのだが、誰もあたくしをそう呼ばなかった。 むしろ名付けた飼い主達がそう呼ばなかったので、もうここはひとつあたくしはコロということでお願いしたい。 生後半年ほどで我が家のおとっつぁんの一存で連れてこられ、家族の一員になった。 お家に用意された簡易小屋のダンボールに入れられ、あたくしが小刻みに怯え震えている間、お姉やんと妹やんはキャッキャとうれしそうに代わる代わるあたくしを覗きにくるし、おかっつぁんは頭を抱えながら「結局
“夫婦喧嘩は犬も食わぬ”ということわざがある。 犬もどころか最近のワンコは良いものを与えられているので、人間なんかよりよっぽど舌がこえていそうだ。 私が子供の頃、我が家では両親の夫婦喧嘩のせいで“飯が食えない”ことがよくあった。 私の今までの記事を読んでくださった方ならお察し頂けると思うが、我が家の夫婦喧嘩が勃発する理由なんて、お母さんのムシの居所が悪い時か、お父さんが悪いか、お父さんが悪いか、お父さんが悪い時である。 「そもそも子供たちの前で喧嘩なんて…。」 と令和
私のお母さんは基本強気だ。 かつて乙女だった頃は違ったのかもしれない。 しかし私の知る限りお母さんは何事もテンション高く、強気な姿勢で生きている。 家電量販店の店員に「お兄さん、この端(読み:ハシタ、端数の意)は、もうえかろ(いらないでしょの意)。」と値切りを詰め寄り、向こうが難色を示すと、 「お兄さんが端を負けてくれんと、引越し費用が足りんで新居に冷蔵庫が置けれん〜うわーん!」と謎の理由をちらつかせ大嘘泣きをカマす。(もちろんバレバレ) そして店員は、隣にいる私と妹に
私の大好きな歌手の一人に忌野清志郎さんがいる。彼には数々の名曲がある。 その中でも有名な曲の一つに”パパの歌”という曲がある。サビがとても印象的だ。以下抜粋。 昼間のパパは ちょっとちがう 昼間のパパは 光ってる 昼間のパパは いい汗かいてる 昼間のパパは 男だぜ この世の働く全てのお父さんを応援するステキな歌詞だ。愛する子供からこんなことを言われたら、働くお父さんたちは皆涙するだろう。 一方、私のお父さんは”全然働かないお父さん”だった。 いちいち言うのも野暮なのだが
私の夫は勉強が苦手だ。 小中高とサッカー漬けの日々を過ごし、放課後みんなが塾に通うであろう時間に釣りに興じ、 「塾なんか行くやつはバカだ。」 という世界一バカな迷言を生み出し、見事に勉強をする習慣を身につけずに大人になった。 ただ自分の生活の中に関わりのあるものであればいくらか知識があり、好きなアニメや漫画の知識と、どこで覚えたのか日本史を少々、外遊びで戯れた自然や虫たちのおかげなのか理科(生物に限る)であれば人並みに語ることもできる。 そして妻の私も一目置いている事な
ユンボをご存じだろうか。 一般的にはショベルカーという名で通っているかもしれない。 私の地元ではユンボと呼ばれている。 そしてあの超スロースピードな掘削用建設車に轢かれた人がいる。 私のおばあちゃんである。 「大変じゃ!おばあちゃんがユンボに轢かれた!」 その日妹はあわてた様子で家に帰ってきた。 リビングにはヘラヘラとだらしない姿で寝転ぶ姉の私と、愛犬コロがいた。 「またテキトーな事言うて。あんなおっそい乗り物にどうやって轢かれんの?」 おばあちゃんには申し訳ない
久しぶりに実家に帰省した20歳の夏休みのある日、一人自分の部屋でゴロゴロしていると知らない電話番号から私の携帯に電話がかかってきた。 私「もしもし?」 相手「あ、A子(妹の名前)のお姉さんですか?すいません突然。僕はA子と付き合ってる者なんですが…」 私「あぁ!どうも。はじめましてA子の姉でーす!」 妹には最近付き合い始めたB君という彼氏がおり、一緒に撮ったプリクラを見せられたことを私は思い出した。 相手「すみません突然。お姉さんの番号はA子から聞いて知ってて、ちょっと
6月といえば思い出すことがある。 お母さんの誕生月である。 お母さんは小さい頃に両親が離婚した。 幼いお母さんは父親に引き取られ、父方の祖母に育てられた。 そしてお母さんは高校生の時に父親を亡くし、早期に自立を迫られ、自立後も若くして私と妹をシングルマザーとして育てることになったり、わりと波瀾万丈な人生を送っていた。 そんな時、お母さんは心の拠り所を見つけた。 当時テレビで大流行していた鋭い口調でズバリ言ってのける、ジャケットの袖がいつも少しだけ長いメッシュヘアのご婦人
私が小さい頃からお父さんは毎回突然ふらっといなくなるのを基本スタイルにしており、私にとってお父さんというのは”家にいる日もあればいない日もある”、そんな存在の人だった。 だから友達のお父さんが毎日帰ってきていつも家に居ると知った時、大変驚愕したのを覚えている。 どこで何をしていたのかは全くわからない。 居なくなることも生活に支障がなかったので一向に構わない。 問題は家に戻ってくる時である。 お父さんはふらっと出て行った後ろめたさからなのか、ストレートに「ただいま」などと