村に霜が降りる頃
昔々あるところに女の子が住んでいました。
女の子の住む小さな村には、子どもは彼女の他にふたつ年上の男の子がひとりだけでした。男の子は女の子にいつもやさしくいろんなことを教えてくれたし、よく絵本を読んでくれました。大人たちもたった2人の子どもを「村の宝」と言ってたいそうかわいがってくれたので、女の子は自分の村が大好きでした。
女の子は、八百屋の裏に広がる原っぱが好きでした。春はかわいいつくしが芽を出し、夏には草が伸びて緑が濃くなります。まだ体の小さなころは、伸びた草の影にかくれて、男の子といつまでも、ふたりきりのかくれんぼをしたものでした。秋になると、ふたりは大きな木から落ちた枯葉を集め、絨毯のように敷き詰めました。拾った落ち葉の裏から飛び出す黄金虫に女の子が悲鳴をあげると、男の子はケラケラと笑い転げました。冬の朝は霜が降りて、2人はその上をざくざく、ザクザクと音を立てて歩きました。寒いと震えながら「歩けない」と言う女の子に、男の子は笑って手を差し出しました。女の子がその手を握ったのをしっかりと目で見て確かめてから、男の子は言うのでした。「動いた方があったかいだろ」と。女の子の視線の先にはいつも、笑って振り向く男の子がいました。なんでも笑顔でこなしてしまう彼を、女の子はいつも尊敬していたのです。
それは2人が成長し、隣町の中学、高校へ通う年になっても変わることはありませんでした。女の子は男の子から数学を教わり、田植え作業を習い、ボタンの付け方だって教えてもらいました。彼女の世界を広げてくれるのは、常に男の子でした。
高校を卒業する頃、男の子が両親と一緒に少女の家を訪ねてきました。少女はそれで初めて、彼が都会へ働きに出ることを知りました。
お世話になりました、と神妙な面持ちで頭を下げる青年に、少女は「水くさくない?」と笑いました。言ってくれたら餞別でも用意したのに、と。青年は昔より少し控えめな笑顔で、「さみしくなるだろ?」と笑ったのでした。翌日、村中の人に見送られ、青年は堂々とした後ろ姿を見せながら都会へと旅立って行きました。
手紙を書くよ、と呟いた言葉は嘘ではなかったようで、青年は月に一度、村に手紙を寄越しました。「村のお米が食べたい」とか、「都会の電車は2分に一本来るんだ、早いだろ?なのにこっちの人たちったらみんな走って乗るもんだから、車掌さんは毎日怒り狂ってるよ」とか、「早いもなにも、俺たちは電車に乗ったことすらほとんどなかったな」とか、新たな生活に戸惑いつつもしっかり生活しているのがわかりました。そしてどんなに忙しそうでも、青年は毎年、年末には村に戻ってきました。彼は進んで村中の家をまわっては、大掃除や餅つきの準備を手伝いました。青年が杵を担ぎながら「昇級試験ってのに合格したんだ」と照れくさそうに笑うと、老人たちは手を叩いて喜びました。「あいつなら都会でも活躍するって、俺はずっと思ってたんだ」「あいつは中坊の頃な、」なんて、みんな自分のことのように彼との思い出を自慢しあいました。
ところが5年ほどすると、青年からの手紙が途絶え始めました。両親が手紙を出しても返事が来るのは3通に1回ほどで、その頻度も5通に1度、7通に1度となり、3年後にはぴたりと止まってしまったのです。女性も初めのうちは何度か手紙を書きましたが、隣町に勤めるようになり、だんだん筆を執ることも減っていきました。村人たちは落ち込む両親に、「活躍してたら、手紙なんて書いてられんよ」「便りのないのは良い便りってな」と明るく声をかけて慰めました。女性もそうね、と頷いて、もしかしたら良い人でも作ってるかもしれないよ、おばちゃん。とおどけてみせました。
テレビ越しのアナウンサーが厳しい声で寒冬を伝えた年。クリスマスを過ぎて大掃除で忙しくなる頃、青年がふらりと村に帰ってきました。服装こそ値の張りそうなスーツに身を包んではいましたが、青白い顔にぼんやりした表情を浮かべた青年は、送り出した頃とまるで違ってしまっていました。青年は実家に引きこもり、両親にすら、空白の数年間のことを話しませんでした。
彼は村の宝ですから、村人たちも誰ひとり彼を責めません。「都会があいつを殺してしまった」「あんな若えのに役職ってやつにもついてたらしい」「無理させたんだな、ひでえ会社だ」「結婚詐欺の女にも嵌められたんだとよ」とみんな青年に同情しました。噂に耳を傾けて「役職ってどんなんね?」と尋ねる青年の両親に丁寧に説明してやりながら、女性は、農作物の収穫から遠ざかってすっかり細くなってしまった彼の腕を思い出していました。
青年が村に帰ってきて2度めの年越しを迎える頃、女性は家の前でばったりと青年と鉢合わせました。のろのろと顔を上げた青年は、村に帰ってきて初めて女性を認識したかのように、軽く目を見開いて「おお、」と呟きました。
女性はふと思い立って、青年の顔を覗き込みました。「明日の朝、早起きできない?」
「はあ、」と気のない返事をする青年に、「昔は得意だったでしょ」と笑い、青年を残して家に入りました。後ろで彼が何か喋ったような気がしましたが、聞こえませんでした。
翌朝。女性が青年の家の戸を叩くと、彼は一応前日の出来事を覚えていたようで、目を細めてのそのそと家から出てきます。女性は青年の腕を強引に引っ張り、もはや駆けるようにして八百屋の裏へと向かいました。
原っぱへ踏み入れると、足元からはざくざく、ザクザクと心地よい音が聞こえます。青年は小さく身震いして、「寒いわ、帰ろう」と足を止めました。女性はケラケラと笑って振り向き、言い返します。「何言ってんの。動いた方があったかいでしょ」
青年はぽかんと口を開け、しばらく立ち尽くし、そしてひとつぶ涙をこぼしました。「ええ?なによ」と笑う女性を追い抜いてザクザク歩きながら、青年はゆっくりと都会での暮らしについて話しました。
昇級して嬉しかったこと、夜を知らない明るい街にワクワクしたこと、職場の同期と切磋琢磨するのが楽しかったこと。彼の話には、村人たちの噂したような陰湿な上司も、抜け駆けする同期も、悪い女も登場しません。女性の耳にした噂を聴かせると、青年は苦笑いして頬をかきました。
「腹の底から悪い奴なんていなかったよ。都会も田舎も、人間って大して変わんねえ。でも出世して嬉しくて、頑張って、夜遅くまで資料見直してさ、そんな中でふと見下ろす街の明るさが怖かったんだ。俺、なんのために睡眠削ってんだろうって。一度思っちまうと、もう全部だめなんだ。早く帰って寝よう、今年こそ帰省しよう、とか思うと、抱えてる仕事のどれかは諦めなきゃいけねんだ。欲しいもの全部は手に入らねえ。当たり前の事だけど、その踏ん切りがつかなくて、道踏み外しちまったなあ」
それから空を仰いでため息をひとつつき、
「がっかりさせて、申し訳ねえな」と小さく笑ったのでした。
女の子は何も言えず、無性に腹が立って、足元の霜を何度も何度も、音のしなくなるまでざくざくと踏みしめました。青年はその様子に首をすくめ、「変わらんな」と言いました。
「お前、腹立てるといつもその音鳴らしてた」と。
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