「こなす」という力の抜き方
力んでしまって、気を遣い過ぎるのは他人に対して良くない行動にも関わらず、それを選択してしまうのはなんでだろうかと自分なりに考えてみる。
ものすごく深い森に来ると何というか大声で歌いたくなってしまう。声で距離を測りたくなる。吸音する空間。有機的なくさびが立ち並ぶ空間。幸い道には迷わないけれど、太陽の位置はあまり分からない。方角も分からない。何というかそういうときじゃないと解放されない。
正しいと分かっているときはあえて一歩踏み出したくない。勉強しなきゃなのにしないとかそういうことではなく、何というか直感的にその方針を軽率にとってしまっていいだろうかとかいうよく分からない憂慮。取り越し苦労。
分からないとき、混沌としているときほどもがいて形を確かめる。実体を見つめる。分からないという快楽に溺れるのは心地よい。
では、「こなす」という状態って何だろうかと考えてみる。多分、きっとうまくいっている状態ではあると思う。どういう行為の結果かは分からないけれど。
人の気配がなくなった空間における、プリミティブな体験を通して得られる感情。
応用が利くとかつぶしがきくとか、そんなことばかり優先しがちなんだけれども、いつかは役に立たなくなってしまう以上、いつかは諦めて、更地からまた適用しなければいけないと思う。そうしてしばらく経って「こなす」という感情が芽生えて、居心地が良くなる。片栗粉を溶かした水の上でバシャバシャ走ると、一瞬個体になって、一歩踏み出せるようにそんな感じ。
いま、自身の浅はかさに気がついた。浅はかさを感じるまでの心地よい感じなので、まあ持続はしないから大切にしたい。あと、一瞬の中の普遍なこととか。
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