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「正しさ」 に溺れる

 最近、スパイファミリーを見ている。今季はこれとかぐや様しか見ていない。昔は色々な作品に手を出していたのだが、ここ数年はアニメに対するモチベーションのようなものが消え、なんとなく惰性で有名な作品を見るといったシーズンが続いていた。いわゆるミーハー。私は自分の新しいものへの好奇心の薄さが嫌いだ。アニメに限らず音楽や小説、学問でもそう。一度味を締めたものは骨の髄までしゃぶりつくすが、未知なるものへは消極的。こういうエンタメの消費の仕方はきっと快楽を享受しているにすぎない。若いうちでこんな状態なのだから、周りから老害と呼ばれてしまう日もそう遠くないだろう、と思う。付け加えておくと、これは自分の状態を批判しているだけであって、作品やそれらを観ている人々を貶めているわけではない。実際スパイファミリーはめちゃくちゃ面白い。知らない人のほうが珍しいと思うが一応、概括的に説明すると、赤の他人だったスパイの男、殺し屋の女、超能力者の少女が「仮初の家族」を築き、「家族としての普通の日常」を送るために日々のトラブルと奮闘する、といったあらすじ。
 やっぱりこの作品のキーポイントは「仮初の家族」という所にあると思うのだが、現代の社会においてもそういう「本物か偽物か」といった課題意識みたいなものを感じることが多々ある。例えば養子を受け入れた夫婦が、ある程度その子が育った段階で「実は私達はあなたの本当の両親ではないの…」と申し訳無さそうに告白する場面を、小説なりドラマなりで目にしたことがある人もいると思う。法的に家族と認められていて、生活環境も家族となんら変わりない。ただ、血が繋がっていないだけ。幼い頃に本来の両親や養子になった経緯などを事細かに話しても子どもは困惑するだけなので、ある程度成熟するまでその機会を待つ。その間は本物の親であるかのように振る舞うので、そこはかとなく子に対して謀ることに罪悪感を覚える。
 ここで「これはあくまで私の憶測の域を超えない」と注釈を入れることを私は忘れない。ヴィトゲンシュタインに「黙れ」と一喝されるのが怖いから。僕は養子にも養親になったことが無いので、彼らの複雑な心境を正確に汲み取ることはできない。
 話は逸れたが、日本の社会ではこういった「正しいか、正しくないか」「本物か、偽物か」という二元論を重要視する風潮を強く感じる。ネットに誤った情報を書き込めば即座に訂正のレスがつくし、高校や大学に入れるか否かは正誤形式のペーパーテストで決まるところが多い。なんとなく、正しいことが絶対的な正義として崇められているきらいを感じる(トートロジーではなく)。では、正しくないものはどうなってしまうのだろう。そんな忌まわしきものは、村八分にされ、この世から抹消された上、地獄の淵に落ちるのだろうか。実はそんなことはない、今ものうのうと息をしている。正しいものも正しくないものも、人間の意識の産物だ。正しいものを見ているのでは無く、見たものを正しいと思っているだけ。
    さらに、私達は真実を感覚器官を媒体として”認識”することしかできない。もしそれ以下でもそれ以上でもない。目の前の赤いリンゴが本当に赤色かどうかはわからないように、感覚器官が真実を映し出すとは限らない。そもそも私達は前提として正しさを知りえないのだ。私達はそんな「仮初」の真実を崇高なものとして扱っている。

 正しいとか正しくないとか、そういうことを議論する時間があったって別に構わない。ただ、それで傲ってしまうのは正直ちょっと痛い。その他の人間の営みと同じように、中身は空虚なんだと理解してすべき行為だと私は思う。正しさに価値なんて無い。 
 そしてなにより、正しさに目がくらんで、本当に大事なものを見落とさないで欲しい。真実なんかよりずっと価値のあるものを私達は知っている。


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