「主体と客体」という知覚が、我々を恐れさせ、不安にし、小さな自分だと感じさせ始める。
主体と客体があると、世界から離れているように見える小さな自己を守るために、心はすぐに「恐れる理由」を作らなければなりません。自分の外側に「何か」があると信じた途端、すぐに他のすべてから離れているこの「小さな自己」を守るために防衛メカニズムがオンになるのです。
そうして客体化されたものは、こちらの世界を侵食し、弱体化させるものとみなされ、排除するか遠ざかるか、攻略するか降伏するか、闘うか逃げるかで反応します。
これは「人から自分はどう見られているか」といった些細なものにまで当てはまります。話し方、話してる内容、声、顔、服、笑い方……に至るまで、人は不安を感じることができ、その不安を払拭するために計画を立てたり、回避したりします。
写真を撮られるのが苦手な場合、普段は意識しない自分の肉体の外観が客体化されて、他者からどう判断されるか?という考えが恐れを引き起こしてるからです。それは自分と相手という分離が起こった瞬間であり、「私は個別の人であり、あなたも個別の人である」という信念があることを示します。
同様に会話が録音されてるとき、もし不安を感じるのであれば、普段は話すことだけについて考えているが、録音という環境によって自分自身を対象化し客体化したからこそ、自分の発言に検閲がかかるような感覚が起こるのです。
自意識とは、「自己が客体化」されることであり、
自意識過剰とは「客体化された自己が弱く傷つきやすいと考え、恐れること」ことと言えます。
(しかしこの主体/客体の構図は、他の誰でもない自らが作ったものなので、それを取り消すことも可能です)