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「想いと変化」 阿部 寛大


政策科学部 政策科学科
阿部寛大 (尚志高校)


今年度副将を務めさせていただきました阿部寛大です。


はじめに、平素より立命館大学体育会サッカー部をご支援、ご声援いただいている皆様、大会運営等にご尽力いただいた関係者の皆様に、心より感謝申し上げます。



吉田君から肉の焼き加減について批判されましたが、今後もトングを離すつもりは毛頭ありません。お肉は少し赤い方が美味しいです。


最後の1年、これまでのサッカー人生を振り返りつつ、競技生活で得た学びや、自分の中に起きた変化を文にしてみました。

長く拙い文章ですが、最後まで読んでいただければ幸いです。













17年間のサッカー人生を終えた。
紆余曲折ありながらも、充実した日々を過ごすことができた。


最後の1年。
副将を務め、B1のキャプテンとして活動した。


どんな組織、チームを作りたいか。
明確な答えが自分の中にはあったし、不安はなかった。


そして、どんなリーダーであるべきか。

お世話になった、ヤクくんやサツくん、タカくん、ツカぽん。

偉大な先輩方と比べ、絶対的な選手ではないし、人間的にも未熟で、影響力もない。

そんなことは自分が1番理解していた。


だからこそ、背伸びをせずに、等身大で。



組織の課題を一人一人が考え、その課題解決に尽力し続けるチームを作りたかった。

そのために


目標達成かける強い想い、そしてその想いに見合うほどの行動と言動を積み重ねる。


私利私欲を捨て、チームのために行動し、自分の言葉で全員に伝え続ける。


リーダーとしてあるべき姿であり、そこに近づくために努めた。


シーズンを通して、各選手を観察し、小さな変化があればすぐに声をかけた。

ただ、振り返るとシーズン序盤は

「チーム全員から慕われること」

を無意識に目指す自分がいた。


それは、自分の意見や決断に納得し、受け入れてもらうため、全員のベクトルを揃えて戦うために必要だと感じたから。


でも、それはただの自己満足だったと、今は思う。




4年ぶりとなる全国出場を目指したIリーグ。

鐘生が今年から学生コーチになった。

彼は毎日のように、強い口調で厳しい言葉をかけていた。


鐘生の言葉が腑に落ちていない選手。
その選手たちに対して、自分なりに鐘生の言葉を噛み砕いて伝える。


前期はそれを繰り返していた。






学生リーグ、開幕から勝てなかった。

昨年まで活躍していた同期が、苦しんでいた。
下回生からの不満も、毎日のように聞こえてくる。

でも、日々の努力を見てきたし、今年に懸ける想いを知っているからこそ、複雑だった。


そんな中で

幹部内で利紀に意見を求められた時
居酒屋で瑠馬や洸大とAについて話していた時


B1の自分には説得力がない。
ストレスになりたくない。

それっぽい言葉を並べ、本音をぶつけることから逃げた。


当時の自分、Aの現状に対して当事者意識はほとんどなかった。


きっと、B1のことで頭がいっぱいだった。
副将という立場にありながら、本当に情けない。



6月、Aに上がった。

当事者意識がほとんどなかった自分。

Iリーグでは、それなりに点を取れていた。
試合に出れば結果を残せる自信もあった。

だけど、それを練習でも、紅白戦でも表現できない。

ガミさんが期待してくれたプレーや、パーソナリティ。

何一つ応えられなかった。


もちろん選手として実力不足であったことは理解している。

ただそれは、17年間の努力の結果であり、すぐに変えることはできないもの。


それ以上に、気概や覚悟が足りていなかった。





結局、B1に戻った。

辛かったし、悔しかった。


それでも、B1で試合に絡めない中、日々の練習では一切妥協しない直弥や坂上、晃大の姿を見て、自然と切り替えることができた。

もう一度、B1のキャプテンとして頑張ろうと思えた。


そして、自分を信頼して使い続けてくれた鐘生にも本当に感謝している。




前期を折り返し、チームとしてはある程度の手応えを掴んでいた。




一方、リーダーである自分。



チームメイトから慕われるために、

「良い人であろうすること」

これが本当にチームのためになっているのか。


そんなことを考え続けていた。

鐘生が嫌われ役になってまで、チームのために選手を叱責している。

越智やノム、カザが時には声を荒げながら、チームを引き締めて練習の雰囲気を作っていく。


その横で、キャプテンでありながら自分は楽な役割に逃げていた。


仲間の力を借りながら、意見を吸い上げながら、皆と一緒にチームを作っていきたい。


安易な考えが先行し、リーダーとして重要なことを忘れていた。


今の自分に必要なのは、
先頭に立ってチームを引っ張り、自分が結果を出して勝利に導く、という強い想いや責任感。


それに気付けたのは、後期開幕戦の直後。



自然と厳しい言葉や要求の声が増えた。

チームが勝つために必要だと思ったことを、誰に対しても伝えた。

誰にも言わなかったし、誰も気づいてなかったかもしれない。

それでも、自分の中で確実に変化はあった。




「チームと向き合うこと」

向き合っているつもりだった前期
全力で向き合い続けた後期


もちろん自分だけの力ではないが、
チームの一体感はどんどん高まっていった。


勝ち点3、喜びの大きさも違う。

暑くて、苦しい夏に7連勝。
大きな成果だった。

後期は最高に楽しかった。



でも、やっぱり関西を優勝して、全国に出たかった。

後輩たちにその景色を見せてあげたかった。

悔しいし、申し訳ない。

このチームで全国に行きたかった。


同期や後輩に恵まれ充実した時間を過ごすことができたこの1年は感謝しかない。

B1のみんな本当にありがとう。






次に、選手としての自分について。

サッカー人生を簡単に振り返っていく。

4歳
地元のクラブに入団。
人数も少なく、決して強くないチームだった。

でも、サッカーの面白さは間違いなくここで学び、サッカー選手として必要なこともたくさん教えていただいた。

純粋に楽しかったし、すぐに夢中になった。

ただ、2個上にヒナタ(前育→駒澤)って凄い奴がいて、同学年にも自分より上手い奴が何人もいた。試合でもなかなか活躍できなかった。

常に「負けたくない」って想いは持っていたが、誰よりもボールを蹴っている自負があった当時の自分にとって、上をいくチームメイトの存在は、精神的にネガティブな側面が大きかった。


振り返ると、先日まで持ち続けたサッカー選手としての中途半端な自信は、幼い頃に醸成されたものだった。


12歳
片道1時間かかる新潟市の街クラブに入団。

競技生活で1番の成長曲線を描いた3年間だった。
チームメイトと切磋琢磨しながら、技術的な部分はもちろん、身体面、精神面も成長させていただいた。

徐々に結果も残せるようになった。

中学3年時には、練習試合含めてほぼ全ての試合で点を取り、自分の力でチームを勝たせている感覚すらあった。

それでも、他の主力選手に比べて評価は低く、信頼も薄かった。

今思えば、当時は足りないものばかりで、真っ当な評価だった。

ただ、「結果が全て」を悪い意味で勘違いしていた自分。
足りない部分は自覚しつつも、納得いってなかったと思うし、悔しかった。

結果を残して得るはずだった揺るがない自信も、やっぱり中途半端なままだった。


15歳
福島県の尚志高校に入学。


実力以上の環境に身を置くことを自覚していただけに、自分よりも上手い選手や評価が高い選手を見ても、想像通りだったし、すんなり受け入れられた。



最後の選手権、自分はピッチに立てなかった。

もちろん悔しかったが、ピッチに立っていたのは自分より実力がある選手。
その選手たちとの差も感じていたし、評価に異論は全く無かった。


チームは県大会準決勝で敗れてしまい、高校サッカーを引退した。

ただ、3年間出た試合ではそれなりに結果を残した。
目標だった選手権で活躍はできなかったが、確実に成長できた。


陽の当たらない選手だったが、周囲からの評価に左右されない確固たる自信が形成されつつあった。


でも、Aで活躍する選手を見て抱いた劣等感に、その自信を否定されているような気もした。



高校サッカーまでを簡単に振り返った。

常に周囲にベクトルが向き、いつも手に入れる自信は中途半端だった。

これも、自分の努力が足りていなかった結果である。


そしてここで登場する「なんで大学でもサッカーを続けたの?」という問い。

3年前に書かせていただいたnote。お時間の許す範囲でご一読を。



そして、立命館大学に入学。
体育会サッカー部に入部。


入部後すぐにB1昇格。


このチームでの1年は、たくさん迷惑をかけたけど、とても充実していた。


4回生の振る舞い、組織全体のバランスや練習の強度、雰囲気。

楽しかったし、先輩方の姿から学ぶことが多かった。


絶対的な存在だったヤクくん。攻守でチームを引っ張り続けた裕くん。やる時はやるクロくん。笑顔と優しさで雰囲気を和ませる金くん。

4回生がチームに与える影響の大きさを実感する毎日だった。


そして迎えたIリーグは開幕2試合で3ゴール2アシスト。
上出来なスタートだった。

だけど、FWの控えにはコミ、志苑くん、恭馬くん。
日頃からお手本にしている先輩がベンチにいて、自分が試合に出ていることに違和感すらあった。

9月に怪我をしてから、メンバー外が続いた。
もちろん悔しい。

だけど

少しでも長く4回生とサッカーがしたい想いが強かった。

毎試合、チームの勝利を心から願っていた自分がいた。

準々決勝の阪南戦、人生で初めて勝って泣いた。
メンバー外の試合で。

このチームでプレーできたことは本当に幸せだったなと思う。

昨シーズン。

ツカサやゼンくんに任せきりではなく。
自分もチームを引っ張る必要がある。
そう思っていた。

一方、B2に落ち、ヘルニアを抱えていた自分に対しての焦りもあった。

色々な方向にベクトルが向いて、中途半端になった。
人生で1番点が取れないシーズンだった。

最終節後、迷惑をかけた4回生に申し訳なくて、泣いていた。

自分の未熟さや無力さを痛感した1年だった。



そして、今シーズン。

幹部として、「お互いを本気で応援しあえる組織を作りたい」と周りに言っていたし、その先頭を走ってきた。

そのために、ピッチ外の姿勢で信頼を得ることが大切であることも強調してきた。

口が開いていない、声が小さい同期や後輩を怒り続けた。




でも、本音を話すと

今年、本気で、心から応援できたのは残り数試合。


B1で一緒にプレーして、プライベートでも仲が良いノヤ、トモ、タイチのA昇格。

3人の前では喜んでいた。けど、悔しかった。
トモやタイチが点を取っても、全然嬉しくない。



3-2で勝った後期の学生リーグ関学戦。
誰よりも声を出して応援した。

ロスタイムに勝ち越して皆が抱き合って喜んで、校歌歌って、澤田が変なダンスしてた。

でも

全然嬉しくない、自分がそこにいないことが本当に悔しかった。

最後に撮った集合写真も、顔を隠していた。




認めていたけど、認めたくなかった。

言葉では表せないけど、中途半端に自信があるから、出れば点を取れると思っていたし、素直に喜べない自分がいた。




でも、9人で応援に行った後期大経戦。


試合終了のホイッスルを聞いた時、心から嬉しかった。


なぜなら、「応援でチームを勝たせたい」って人生で初めて思えた試合だったから。



前期、当事者意識がほとんどなくて、Aでもダメだった。

B1でも、人任せで自分が先頭に立って引っ張る責任感が全くなかった。


そんな失敗の中で、新たな気付きや変化があり、人として成長することができた。


だから、この試合は応援という自分に与えられた役割の中で、立命館が勝つために全力を尽くせた。ピッチで戦う選手たちを全力で応援できた。



2部降格という結果にはなってしまったが、最終節まで立命館の代表として、全力で戦ってくれたAの選手には本当に感謝している。






改めて、本当に幸せなサッカー人生だった。

仲間や指導者に恵まれた17年間は人生の財産となった。


春からは社会人として、組織の中で自分の存在意義を見出し、揺るがない自信を身につけるために、精進していきたい。




最後に少しだけメッセージ

同期へ

まずは、出会ってくれてありがとう。

4年間、皆のおかげで充実した日々を過ごすことができました。

面白くて優しい選手が多くて、本当に楽しかった。

サッカーを続ける人、辞める人、一般企業に就職する人、大学院に行く人、お笑いやる人、DJするひと、関西に残る人、地元に戻る人、海外に行く人。

それぞれの道で頑張って、また集まった時は、みんなで乾杯しましょう。


両親へ

まずは17年間サッカーを続けさせてくれたこと、本当に感謝しています。
2人のサポートがあったからこそ、ここまで頑張ることができました。

幼い頃は庭で一緒にボールを蹴ってくれて、中学では往復2時間の送迎、高校では毎週のように福島まで足を運んでくれた父さん。
毎日美味しいご飯を作ってくれて、いつも優しく冷静に、自分を支えてくれた母さん。

たくさん迷惑をかけたけど、2人の息子で本当に幸せでした。

高校でも、大学でも全国に連れていくことができなくて申し訳ない。
これから、少しずつ恩を返していけたらと思っています。


改めて、本当にありがとう!




最後まで読んでいただきありがとうございました。
引き続き立命館大学体育会サッカー部のご支援、ご声援よろしくお願いいたします。


明日は、ウエストハウスで伝説を残した茂木太智です。

同期の中でも、彼と一緒にいる時間は圧倒的に長かった。
正直なんて紹介したら良いかわかりません。
ただ一つ言えるのは、彼のオールインにはフォールドが賢明です。

彼がこの4年間をどう表現するのか、楽しみです。乞うご期待。


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