自分が何者か、知りたくない話。
※医学的知識の無い人間による、発達障害やその診断などに関する言及が多分に含まれています。記載されていることが間違っていたり、医学的に好ましくない考え方である可能性がありますので、ご了承のうえ、以下お読みください。
自分は、いわゆる発達障害なのではないかと思う。
少なくとも、グレーゾーンではあると思う。
思う、というのは、まだ診断をもらいに行ったことがないからだ。発達障害に関する本とか、どこかの医院が出している記事とかを見る限り、そうじゃないかと思うだけである。
特に、ASDの傾向なんかは結構当てはまる。
昔から、人の考えていることは分からなかった。小さいときに、何故か大人や友達を怒らせることがあって、理由が自分では分からないので怖くなって、無難で影の薄いお利口さんとして生きていたら、今度は誰からも相手にされなくなった。
人がうっすら恐ろしいのと、分からないものを分かろうとするのが面倒すぎて、最近はもう1人でいる方が楽なことに気づいた。数少ない仲のいい子とたまに会うのは楽しいけれど、毎月とか会いたいとは思わない。
一方でこだわりが強くて、親や先生に言われた方法で何かをするのをすごく嫌がった。いい子のふりをしているくせに、大人の言うことは一切聞かなかった。
自分はこれがいいと思ってやっているのに、違うやり方を強制されて、やらされるのが怖かった。納得できなかった。
今もそれは変わらなくて、勉強から普段の生活に至るまで、色んなことを自己流でやっている。自己流でしかできない。
こだわりは服にもあって、私は基本的に黒しか着ない。黒の面積が全身のうち半分を切ると、物凄く不安になる。同じような形の黒い服ばっかり買ってきて、クローゼットは黒一色。我ながら変だなと思う。
好きなことであれば、寝食や他にやるべきことを忘れて没頭出来るし、いつもの倍以上の力が出せるけれど、好きじゃないことには別人のように力が入らない(それなのに、あんまり好きじゃないことをずっとやってた時期があって、我ながらすごいと思う。この辺の話もまたしたい)。
など。
これに加えて、いわゆるADHDのような気質もあって、基本的に自分のことは信用していないし、ろくなものではないと思っているし、ずっとわからない。
文字に起こすと分かりにくいが、そんな自分と24時間相対している身としては、まあ自分はいわゆる“定型”ではないだろうな、ぐらいは思う。
けれど、私はその答え合わせをするのが、億劫でもあり、少し恐ろしくも思っている。
人間関係がうまく行かないのが、私のせいじゃなく、障害のせいかもしれないと初めて知ったとき、物凄く救われたことを覚えている。
私が全部間違っていて、私が全部悪いのだと思っていたから。
だけど、いざ貴方は発達障害です、と言われたとして、何か変わるのだろうか。そんなことを思う。
昔は人のことがそれなりに好きだったから、何故自分だけ人と仲良くできないのか毎日毎日考えていて、毎日毎日悲しかった。
けれど、人の適応能力というものは馬鹿にならないもので、今ではむしろ、人と一緒にいる方が億劫に思うようになった。1人の時間を、それなりに楽しめるようになった。
昔はその時間で色んなスキルを身につけて、どうだ、お前らが仲良く遊んでいる間に私はお前らよりも一つ優秀になったぞ、みたいなことを思ったりしていたが、今はそんな発想にもならない。
苦手なことは無理にしなければいい。それだけの話。
そんな今の自分は、おそらく、悲しみを感じないようにするための防衛本能から生み出されたものだ。
けれど、いまや完全に成り代わってしまった以上、今更あの時のあれは発達障害のせいでしたと言われたって、何が変わるのだろうか。
小さい私は、二度と救われない。
それに、良い環境にいさせてもらっているからなのか、日常生活で特に物凄く困るということはない。
研究室一つ取っても、最高の環境である。
人と関わるのが好きではなくて、自分以外から発せられる音でいちいち気が散ってしまって落ち着かないから、研究室にはたまにしか顔を出さないけれど、特に咎められることはない。
マイペースに、自己流に研究をしていても、必要以上に急かされたりすることもないし、自由にやらせてくれる。
忘れ物とか、結構ヘマをすることも多いけれど、あまりにもひどいものでなければ、先生も先輩も許してくれるし、助けてくれる。
いい意味で、人に興味がない人が多い。
何より、好きなことを研究できているから、楽しい。
自分が人と関わることが苦手で、こだわりが強くて、好きなことしかできなくて、頼りない人間であることを、忘れてしまう。
事務仕事をこなせなかったりスケジュール管理が苦手だったり、後回し癖があって結局やるべきことができなかったりすることは、ちょっと困るけれど。色んな工夫をすれば、できないことはない。
何とか毎日、生きている。
本当に、客観的に見ても“その程度”なのかもしれない。大したことじゃなくて、何なら発達障害ですらないのかもしれない。だから今、困っていないのかもしれない。
けれど一方で、今の環境がなくなって、別の環境に行ったら、すごく困ってしまうのかもしれない。生きていけないのかもしれない。
それが分からないから、早く白黒付けにいけばいいのにと思う。けれど、白黒ついてしまった時のことを考えると、やっぱり足がすくんでしまって、行けない。
思い込みが激しい方だから、今は何とか頑張って出来ていることが、「本当はそれが出来ない障害なんですよ」と言われた瞬間に、出来なくなってしまうかもしれない。
怠惰な性格だから、障害があることに甘えて、もっとろくでもない人間になってしまうかもしれない。
逆に、障害でも何でもありませんと言われるのも、それはそれで恐ろしい。人間関係がうまく築けなかったことも、こだわりが強くて苦労したことも、ちょっと世間からズレてたり変だったりすることも、全部自分のせいになってしまう。
責任の所在が明らかでは無い現状には、不思議な心地よさを感じている。ここから、一歩も動かなくても良いのでは無いか。いや、動きたくないと思ってしまう。
今の価値観で言えば、多分全然正しく無いことを言っている。早よ診断もらいに行け、と言われるのだろう。
けれど、自分が何者なのか?ASDだとも、ADHDだとも、一生知らないまま生きて、死んでいった人が、たくさんいるはずなのだ。
発達障害が知られていなかった頃、今でいう発達障害に該当していた人は、いったい何者だったのだろうか。
ちょっとした変わり者?何を考えているか分からない一匹狼?全然ちゃんとしてない怠け者?
面白い人?嫌な人?
人間は何でもかんでも枠にはめて、複雑すぎる世の中を一般化して生きている節があると思う。今は発達障害という、言ってしまえば便利なカテゴライズが出来るけれども、それがなかった時代、そういう人たちは、色んな人の色んな“何者か”に当てはめられこそすれ、“特定の何者か”ではなかったのでは無いかと思う。
時代錯誤だ、と言われればそれまでなんだけれども。
そうやって生きてきたことが許された時代があるのなら、今そうやって生きてはいけない理由もないと思ってしまう。
こんなことをうだうだと言い訳して、私は一生、自分が何者かを知ることがないかもしれない。
発達障害かもしれないし、グレーゾーンかもしれないし、発達障害じゃないかもしれない。
けれど、その状態が悪だとは、どうしても思えないのだ。知ったところで、特にもう大人になってしまったし、どうしようもないだろうという、諦めも添えて。
とりあえずあと数年は、自分が“何者か”を決めてしまわずに、この不安定な状況に安寧を見出して、自分なりにやっていこうかな、と思う。