「幼い子が遊ぶように生きられないのは」考
こちらの記事を拝見して
思いついたことを少々。
昔から私は
やるべきことがあっても
たのしいほうへ
つい惹かれてふらふらと行ってしまっていた。
大人になってもその性向は変わらず
独身時代は面白がられたものの
結婚して子育て時期になるとよく夫に叱られた。
「この忙しい時に、そういうくだらないこと思いつかないで!」
くだらないことかぁ。
でも、これ、とっても面白くて興味深いし
私にとっては全然くだらなくない
なんならとっても大事なことなんだけどな。
心の中で小さく呟きながら
ま、大人だから仕方ないかな、と
日々の「やるべきこと」を粛々とこなしていたわけだが。
外来で出会ったり、街中で見かける子どもたちも
私のように、なんだか無駄に叱られているなあ
とよく思う。
(ま、わたしは大人だからある程度は叱られても仕方なかったけどね)
この小さな穴の中には何があるのか?
このピンクのお肉を触るとどんな感じなのか?
この細い道の先の先はどこに繋がっているのか?
この機械を分解したら中はどうなっているのか?
…
だって、面白いんだもん。
だって、興味が湧いちゃったんだもん。
だって、気になっちゃうんだもん。
仕方ないじゃんねー。
かなり昔の話。
幼い頃に交通事故で急死した父親の遺品のカメラを、つい分解してしまったことがある。
中が見てみたかった。気になってしかたがなかったのだ。
小学校の低学年くらいだったろうか。
それまでも、調子の悪くなった扇風機なんかをすでに直したりしていたので
カメラだってちゃんと元に戻せると思ったのだが
当然ながら無理だった。
大人になってみれば
母には本当に申し訳ないことをしたと思うが
実はそれについて叱られた記憶がない。
まあ、いろいろな意味で懐の深い、というか
頭のネジが一本飛んでる、個性的な母なのだが
それを叱らなかったのは我が親ながら大したものだと今でも思う
そうした親の一連の対応のおかげで
私の好奇心はスクスクと成長し
見事に今の仕事につながっている。
深海魚や恐竜やキラキラの輝石なんかに飛びつく外来の子どもたちと
その魅力について熱く語り合ったり遊んだりしている。
やってることは昔と何ら変わりない。
幼い子が遊ぶように生きられないのは
一つには、たのしいほうへ行こうとするのを封じられるからかなと思う。
そんなのくだらない
やるべきことがあるでしょ、と
己の興味関心を否定され続けると
その、みずみずしくのびやかな好奇心は
いつの間にか枯れてしまう
小さな好奇心には周囲の「水やり」が欠かせないのだ。
いまは大人が忙しすぎるのかもしれない
やるべきことだけを優先してやり続けた先に
一体何があるのだろうと思う
若い人は気づき始めている
あと数年すると
楽しく生きる大人がもっと増えているだろう
(だから私は今の社会にあまり悲観していない)
へぇー面白いね
うん、気になるね、どうなってるんだろうね
うん、それって素敵だよね
夫に叱られながらも
結局楽しいほうを選び続けることができた
ヒマで幸せな数少ない大人の一人として
これからも子どもたちの好奇心に付き合って
死ぬまで「水やり」を続けようと思う。