太平記 現代語訳 13-3 クーデター計画

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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故・北条高時(ほうじょうたかとき)の弟、北条泰家(やすいえ)は、元弘(げんこう)年間の鎌倉攻防戦の時、自害したように見せかけて密かに鎌倉を脱出し、その後しばらく、奥州(おうしゅう:東北地方東部)に潜伏していたが、世間の目を避けるために、還俗して京都へやってきた。そして、西園寺公宗(さいおんじきんむね)のもとに身を寄せ、公家の家に奉公したての地方出身の侍のように装っていた。

いったいなぜ、西園寺公宗がこのような事を許したのか、それは、この家の過去の歴史を振り返って見ればよく分かる。

承久の乱の時、太政大臣・西園寺公経(さいおんじきんつね)は、鎌倉幕府に内通していた。そのおかげで合戦を有利に進めることが出来た幕府側のリーダー・北条義時(ほうじょうよしとき)は、「自分の後、子孫7代に至るまで、西園寺家と固く協力関係を結んでいくように」と言い置いた。

以来、鎌倉幕府は、西園寺家を格別に大事に扱ってきた。そのおかげで、代々の皇后もこの家から多く出て、諸国の官職もその半ばまでが、西園寺家の者に与えられてきた。

かくして、この家の主は太政大臣にまでなり、人臣位階を極めた。

西園寺公宗 (内心)鎌倉幕府が滅びるまでの、わが西園寺家の繁栄、これはひとえに、幕府があのように、我が家をひきたててくれたからやった。

西園寺公宗 (内心)そやからな、この際、何とかして、高時殿の一族を盛り立ててやって、彼らに政権を奪回させたいもんやわ。そないなったら、わが家は朝廷の中の第一人者となって、天下をわが掌中に握れるやん。

このような思いがあった故に、公宗は、泰家を還俗させて、刑部少輔時興(ぎょうぶしょうゆうときおき)という偽名を使わせながら、明けても暮れても、クーデター計画を二人で練っていた。

ある夜、西園寺家の家司の三善文衡(みよしあやひら)が、公宗の前に来ていわく、

三善文衡 国家の将来の興亡を判断するには、政治の善し悪しを見るのが一番ですわ。政治の善し悪しを見きわめるためには、賢明なる臣下を君主がどのように処するか、という点に注目していけば、えぇでしょう。微子(びし)が去って後、殷(いん)王朝は傾き、范増(はんぞう)が罪せられて後、項羽(こうう)は滅びました。賢明なる臣下を大切にしないような国家というものは、必ず傾いていくわけですよ。

西園寺公宗 うん、なるほど。

三善文衡 今の朝廷を見わたしてみるに、まともな臣下と言えそうなのは、あの万里小路藤房(までのこうじふじふさ)、ただ一人だけやったです。そやけど彼も、今の政権の先行きが決してよろしくないっちゅうことを、もう察知したのでしょうな、こないだついに、隠遁の身になってしまいましたよね。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 これは、朝廷にとっては大いなる凶事ですけどな、御当家にとっては、これから運が開けていく前兆やと、私は思います。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 今が、チャンスですわ。

西園寺公宗 ・・・。

三善文衡 どうか、クーデター決行のご決意を! 北条家の息のかかってたもん(者)らが、十方から馳せ参じてきますでぇ。天下ひっくり返すんなんか、たった1日もあれば十分!

西園寺公宗 ・・・よぉし、いっちょ、やってみよか!

三善文衡 やってくださいよぉ!

西園寺公宗 となると、兵力が必要やな。まずは、泰家殿を京都方面軍の大将に任命して、近畿地方から兵を集めるとして・・・。

三善文衡 関東は?

西園寺公宗 生き残った子供おったやろ、高時殿の。

三善文衡 時行(ときゆき)殿ですな?

西園寺公宗 そやそや、その時行(ときゆき)を大将にしてやな、甲斐(かい)、信濃(しなの)、武蔵(むさし)、相模(さがみ)の勢力を集めて、率いさせるとしよ。

西園寺公宗 北陸方面は、名越時兼(なごやときかね)を大将にして、越中(えっちゅう:富山県)、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)から兵を募ると・・・このセンで、行こか!

三善文衡 了解!

このように、諸方面の準備を同時進行で整えた後、西の京(京都市・中京区)から大工多数を招集し、西園寺邸内に、湯殿を急ピッチで建てた。

その脱衣室の床に落とし板を仕掛け、その下の地面に刀を植え込んだ。

遊興を催して、後醍醐天皇を西園寺邸に招き、「陛下、華清宮(かせいきゅう:注1)の温泉になぞらえて、「浴室の宴」なぞ、いかがでしょうか」と勧め、天皇をこの湯殿に導き入れた後、落とし板から刀の上へ落として殺害してしまおう、との計画である。

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(訳者注1)中国・唐の玄宗皇帝が楊貴妃とともに遊んだ所。
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このように、様々に謀略をめぐらし、クーデター決起のための兵力を確保した後、公宗は、「西園寺邸へ御行幸いただき、北山の紅葉をお楽しみくださいませ。」と、天皇に奏上した。

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行幸の日程はすぐに決まり、その際の儀式等の準備が着々と進められていった。

そしていよいよ、「明日の正午に、西園寺邸へ」との発表がなされた日の夜、

後醍醐天皇 あれ、あの女、いったい? 見かけん顔やなぁ。赤い袴の上に、薄墨色のあこめを、二枚重ねで着てるわ。

後醍醐天皇 おいおい、おまえ・・・こないなとこで、何しとるんや。

女 前方には、怒れる虎と狼、後方には獰猛(どうもう)なる熊とヒグマ。明日の行幸、なにとぞ、思い止まりください。

後醍醐天皇 エェ? おまえ、いったい、どこの誰や? どっから、来たん?

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