太平記 現代語訳 19-8 北畠軍、鎌倉を攻略の後、京都へ向かう
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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足利家関東方面の総帥(そうすい)・足利義詮(あしかがよしあきら)は、この時わずか11歳であった(注1)。未だ、思慮が備わるとは思えない年齢である。
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(訳者注1)史実の上では、この時点では8歳である。いくらなんでも、8歳の少年が、このような事を言えるはずがないだろう、との読者の疑問を回避するために、太平記作者が、年齢をこのように変えて記述したのであろう。
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義詮は、会議出席メンバーらの議論をじっと聞いていたが、にわかに口を開いた。
足利義詮 ちょっと待った! みんな、いったいなに考えてるんだ!
足利軍リーダー一同 !!!(驚愕)。
足利義詮 さっきから聞いてりゃぁ、撤退、撤退って・・・みんな、揃いも揃って、弱気一色じゃないか。
足利軍リーダー一同 ・・・。
足利義詮 みんな、いったいどうした? いつもの元気は、いったいどこへ行ってしまったのかなぁ。
足利軍リーダー一同 ・・・。
足利義詮 戦をすりゃ、どちらかが負けるに決まってるさ。そんなに、負けるの怖けりゃ、そもそも戦わなきゃいいんだ、そうじゃなぁい?
足利義詮 いやしくも、この義詮、父上から関東を任されて、ここ、鎌倉にいるんだぞ。敵が大兵力だからって、一戦もしないで逃げ出したんじゃ、後で世間から何と言われるか。そんなことでは、敵に何と嘲られても、反論のしようが無いじゃないか。
足利軍リーダー一同 (驚きの眼差し)・・・。
足利義詮 たとえこちらが小勢であっても、敵が寄せてきたら、それに馳せ向かって戦うだけのことさ! 戦ってもかなわなかったら、その時には、討死にするだけのことだろ!
足利軍リーダー一同 (目を輝かせながら)・・・。
足利義詮 あるいは・・・他所(よそ)へ撤退するにしてもだよ、敵軍の一角を破ってからね、安房か上総へ退くべきじゃぁなぁい?
足利義詮 鎌倉に入った後、敵軍は、京都を目指して東海道を西へ進むだろうよ。我々は、その後にピッタシついて、追いかけていきゃぁいいんだ。そしてね、宇治か瀬田のあたりで、京都から東に進む父上の軍と呼応して、東西から敵を挟み撃ちにする。そういったグアイに事を進めていったら、敵は確実に滅んじゃう!
このように、事細やかに理路整然たる義詮の言葉に、一同奮起した。
足利軍リーダーA わかりやした! やりますよ!
足利軍リーダーB こうなったら、討死にするまでのことよ!
足利軍リーダー一同 そうだそうだ!
全員、覚悟をかためて、鎌倉にたてこもった。その軍勢は、1万余騎足らずしかいない。
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足利サイドの情勢を見定めた後、北畠顕家(きたばたけあきいえ)、新田義興(にったよしおき)、北条時行(ほうじょうときゆき)、宇都宮(うつのみや)・紀清(きせい)両党、合計10万余騎は、12月28日、全軍しめしあわせて、鎌倉へ押し寄せた。
攻めくる側の兵力数を聞き、足利サイドは、「到底、勝ち目の無い戦」と一筋に覚悟を固め、城の守りをかため、塁を深くした。
謀略は一切用いない。1万余騎を4手に分けて、北畠軍の進路に向かい、相手と駆け合わせ駆け合わせて、全員身命を惜しまずに、まる一日戦い続けた。
やがて、一方の大将の斯波家長(しばいえなが)が、杉下(すぎもと:鎌倉市)で戦死。この方面から足利サイド防衛ラインは破れ、攻撃軍は、鎌倉の谷々へ乱入。
3方向からの包囲を受けて、足利軍は一所に集合、戦死者続出、戦力となる兵も少くなってきた。
このままでは到底無理、という事で、大将・足利義詮を守りながら、高(こう)、上杉(うえすぎ)、桃井(もものい)以下全員、思い思いに鎌倉を脱出した。
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これより後、関東の勢力もどんどん北畠軍に参加してきて、雲霞のような大軍になった。
北畠顕家 こないなったら、鎌倉に長居する必要もない。いざ、京都へ!
建武3年(1336)1月8日、北畠軍は鎌倉を出発、夜を日についで京都へ向かった。
その軍勢は合計50万騎、先頭から後尾まの進軍ラインは5日間の行程に伸び、左右4、5里に広がって、押し進んでいく。
善悪の見境もない人々ゆえ、それが進み行く道中一帯にはまことに惨澹(さんたん)たる光景が広がっていった。路傍の民家に押し入っては掠奪し、神社仏閣と見ればかたっぱしから放火。軍勢が通過していった後の東海道一帯は、塵を払うがごとく、家の一軒も、いや、草木の一本さえも残っていない。(注2)
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(訳者注2)戦争のトバッチリを受ける側の視点から考えてみることも、必要ではないだろうか。「中世民衆史の方法-反権力の構想 3 内乱と農民(208P~209P)」(佐藤和彦著 校倉書房1985)」より以下、引用。
「南北朝内乱は、民衆生活にいかなる影響を与えただろうか。14世紀末の作品といわれる「秋夜長物語絵巻」には、わずかな資材を背負って戦火に追われて逃げまどう人びとの姿が描かれている。「太平記」にも「路次ノ民屋ヲ追捕シ、神社仏閣ヲ焼払フ、総ジテ、此勢の打過ケル跡、塵ヲ払テ、海道二三里ガ間ニハ、在家ノ一宇モ残ラズ、草木ノ一本モ無リケリ」と兵糧を現地調達しつつ進撃する武士団によって、民衆生活が悲惨な状況へと追い込まれてゆく様相が記されている。南北両軍の往来のはげしかった東海道筋にあたる東大寺領美濃国大井庄や茜部庄の農民たちが、内乱によっていかに生活を破壊されたかをのべた「百姓等連署起請文」などを読むかぎり、”絵巻”や”軍記物”の描写がけっして誇張ではないことを知りうる。南北両軍が村々を通過するとき、船便を待って村に駐留するとき、牛馬は徴発され、資材は略奪されつくしたのである。内乱が長期化すれば、兵員の不足を補うとの名目で、陣夫役・野伏役が課せられて、農民たちが戦場へかりだされることもあった。かかる惨状からみずからの生活を守るものは、相互の扶助と団結だけであった。鎌倉中末期に成立した惣(そう)結合は、その内部にさまざまな矛盾をはらみつつも、内乱期をつうじて次第に強化されていった。惣結合は、戦火のなかで農民の生活を守るための基盤であり、生活向上をめざして闘うための砦(とりで)であった。」
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このようにして、北畠軍の前陣は、熱田(あつた:名古屋市・熱田区)に到着。熱田大宮司・昌能(あつたのだいぐうじ・まさよし)が、500余を率いてこれに合流してきた。
同日、美濃国(みのこく:岐阜県南部)の根尾(ねお:岐阜県・本巣市)、徳山(岐阜県・揖斐郡・揖斐川町)から、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)が、1,000余騎を率いて馳せ加わった。
こうなってはもはや、ここから京都への道中において、この大軍を食い止めようとする者など誰もいないと、思われる。
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鎌倉の戦に負けて方々へ逃げていた、上杉憲顕(うえすぎのりあき)と上杉藤成(うえすぎふじなり)は相模より、桃井直常(もものいなおつね)は箱根より、高重茂(こうのしげもち)は安房・上総より鎌倉へ渡り、武蔵と相模の武士らを招集した。思う所あって北畠軍に靡(なび)かなかった、江戸(えど)氏、葛西(かさい)氏、三浦(みうら)氏、鎌倉氏、関東八平氏、武蔵七党らがこれに加わり、総勢3万余騎になった。
清(せい)党のリーダー・芳賀禅可(はがぜんか)は、もとより足利サイドに与(くみ)していたので、紀清(きせい)両党が北畠軍に参加して京都へ向かった際には、仮病を使って国元に止まっていたのだが、彼もまた、清党1,000余騎を率いて足利軍に加わってきた。
この軍勢5万騎は、北畠軍を追尾し、先鋒は遠江(とうとうみ:静岡県西部)に到着。その国の守護・今川範国(いまがわのりくに)が、2,000余騎を率いてこれに加わってきた。
中1日経過の後、三河国(みかわこく:愛知県東部)に到着。その国の守護・高尾張守(こうのおわりのかみ)が、6,000余騎を率いてこれに合流。
美濃の墨俣(すのまた:岐阜県・大垣市)に到着後、土岐頼遠(ときよりとお)が、700余騎を率いて合流。
北畠軍60万騎は、足利尊氏を討たんとして、京都への道を急ぐ。北畠顕家を討たんとして、高、上杉、桃井軍8万は、その後を追う。まさに、荘子の次なる言葉そのものである。
じっと 蝉を狙うカマキリ
そのカマキリを じっと狙う野鳥
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