太平記 現代語訳 1-6 日野俊基、倒幕に向けて調査を開始
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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元亨(げんこう)2年の春ごろから(注1)、「中宮(ちゅうぐう:注2)めでたくご懐妊のための祈祷を」ということで、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)より、諸寺・諸山の貴僧、高僧に命が発せられ、様々の大法・秘法が修された。
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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]および、[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注によれば、この祈祷が行われたのは、実際には、元亨2年(1322)ではなく、嘉暦元年(1326)なのだそうである。[正中の変]よりも後のことになる。
(訳者注2)1-4に登場の「後西園寺実兼の御息女・禧子(きし)殿」のことである。
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中でも、法勝寺(ほっしょうじ:京都市・左京区にあった)の円観上人(えんかんしょうにん)と、随心院(ずいしんいん:京都市・山科区)の文観僧正(もんかんそうじょう)の二人に対しては、陛下から特命が下った。
円観と文観は、皇居の中に壇(だん)を構え、中宮のお側近くにおいて、肝胆(かんたん)を砕かんばかりの必死の祈祷を行った。その修したる法をリストアップしてみるに:
仏眼(ぶつげん)
金輪(こんりん)
五壇(ごだん)の法
一宿五反孔雀経(いっしゅくごへんくじゃくきょう)
七仏薬師熾盛光(しちぶつやくししじょうこう)
烏蒭沙摩(うすさま)
変成男子(へんじょうなんし)の法
五大虚空蔵(ごだいこくうぞう)
六観音
六字訶臨(ろくじかりん)
訶利帝母(かりていも)
八字文殊(はちじもんじゅ)
普賢延命(ふげんえんみょう)
金剛童子(こんごうどうじ)の法
護摩の煙 皇居の庭に満ち
導師が振る鈴の音 後宮(こうきゅう)に響き渡る
いかなる悪魔怨霊(あくまおんりょう)なりとも
障碍(しょうげ)をなすこと 難(かた)しと見ゆる
かくのごとく、努力を継続、日に日を重ねて熱祷の限りを尽くさせられたのであったが、祈祷開始より3年を経ても未だになお、「中宮様おめでた」の報が聞こえてこない。
これは後日になってから明るみに出た事なのだが、どうやら、「中宮の御産祈祷にかこつけて、鎌倉幕府調伏の秘法を修せしめていた」、というのが事の真相だったようである。
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かくも重大なる事(打倒・鎌倉幕府)を、思い立たれたのであるからして、
後醍醐天皇(内心) ここはやっぱし、重臣らの意見も聞いてみとくべきやろかなぁ。
後醍醐天皇(内心) いやいや、やっぱし、そらまずいで。倒幕計画が多くの人の知る所になってしもぉたら、幕府の方にも情報、リーク(leak)してまうことは、必至・・・やめとこ。
ということで、深慮・智恵ある老臣や近侍(きんじ)の人々に対しては、倒幕計画についての相談は一切行われなかった。
ごく少数の人々だけが、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]への参画(さんかく)を許された。
そのメンバーは、日野資朝(ひのすけとも)、日野俊基(ひのとしもと)、四条隆資(しじょうたかすけ)、花山院師賢(かざんいんもろかた)、平成輔(たいらのなりすけ)である。
天皇は、彼らだけに秘かに、討幕の意志を伝え、頼りになりそうな武士たちを招集された。
その結果、錦織判官代(にしこりのほうがんだい)、足助重範(あすけしげのり)、南都北嶺(なんとほくれい)の衆徒(注3)少数が、その誘いに応じた。
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(訳者注3)「南都」とは平城京のあった奈良の事であるが、「南都北嶺の衆徒」という言葉となるともっぱら、「興福寺と延暦寺の人々」という意味になるようだ。
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さて、注目の人・日野俊基。
彼は、先祖代々の朝廷における儒教学担当職を継ぎ、才知学識に優れていたので要職に抜擢(ばってき)され、書記官の官位に任ぜられ、蔵人の職にあった。
日野俊基 (内心)アーァ、マイッタなぁ・・・朝廷の仕事、メッチャ忙しすぎるやん・・・こんな状態では、[打倒・鎌倉幕府・プロジェクト]の企画立案に割ける時間なんて、全然出てきぃひん。
日野俊基 (内心)しばらくの間、世間から隠遁できひんもんやろか・・・そないなったら、毎日時間はたっぷりあるよってに、じっくり腰落ち着けて、企画練れるようになるんやが・・・なんか、えぇ方法、無いもんやろかなぁ。
そのような時に、延暦寺(えんりゃくじ)・横川(よかわ)エリアの衆徒たちが、嘆願状をもって朝廷に訴えてきた。
閣議の場において、その嘆願状を開いて口述する際に、
日野俊基 ・・・我ら横川エリア衆徒一同、以下の通り、朝廷に対して嘆願したてまつります・・・エェ・・・エェト・・・ま・・・まんごんいんの・・・。
その座に居合わせた諸卿たちはこれを聞き、目と目を合わせてヒソヒソ、
公卿A ハァ? まんごんいん? なんのこっちゃぁ?
公卿B クックック・・・まったくもって、笑えてきますなぁ・・・あれはですな、「まんごんいん」やのうて、「りょうごんいん」ですよ。
公卿C りょうごんいん、あぁ、横川のしゅりょうごんいん(首楞厳院)のことですかいな。それをまたなんで、「まんごんいん」などと?
公卿B 俊基め、首楞厳院の「りょう(楞)」という字の読み方、知らへんよってに、苦しまぎれに、当て推量で読みよったんですわいな。
公卿C はぁ? それいったい、どういう事ですかぁ?
公卿B 「りょう(楞)」の字は、ツクリに「万」の字が入ってますやろ、そやから、「まん」と読みよったんですなぁ。
公卿C あぁ、なぁるほど、そういう事ですかいなぁ。俊基め、考えよりましたなぁ、クックック・・・。
公卿D ほな、ナンですなぁ、「分不相応」の「ソウ(相)」という字もやねぇ、ヘンは「き(木)」やし、ツクリは「め(目)」やねんから、「ソウ」ではのぉて、「モク」と読まんと、あきませんわなぁ。
公卿C 言われてみれば、ごもっとも。
公卿全員 ウヒャヒャヒャヒャヒャ・・・パンパンパン(手を打ちながら)。
日野俊基 (大恥・赤面)・・・(退出)。
このように、わざと読み間違いをしでかして、「官僚・某、閣議の席上において大失態!」との状況を演出した後、俊基は、「ボク、公の席で大恥かいてしもぉたから、自宅にこもるわ」と、世間に触れ回った後、半年間ほど朝廷への出仕を止めた。
彼は、山伏姿(やまぶしすがた)に身を変え、大和国(やまとこく:奈良県)、河内国(かわちこく:大阪府東部)の各地を探訪し、倒幕旗揚げの際に城塞(じょうさい)とできうるような場所を、見定めた。
更に、東国、西国にまでも足を伸ばし、それぞれの国の風俗や、各地の有力者の権力構造を調査してまわった。
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