太平記 現代語訳 19-7 北畠顕家、大軍を編成して、奥州より関東へ進撃

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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奥州(おうしゅう:陸奥国)の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ)は、

 「去る建武3年1月、園城寺での戦の際に、東北地方から遠路上洛して新田義貞(にったよしさだ)を支援し、足利尊氏(あしかがたかうじ)を九州に追いやったその功績、まことにもって並び無きものなり」
 
ということで、鎮守府将軍(ちゅんじゅふしょうぐん)に任命されて、再び、奥州に赴任した。

しかしその後、「後醍醐天皇サイドの軍勢は戦いに破れ、天皇は比叡山より京都へ還幸、花山院の故宮に幽閉。金崎城は攻め落とされ、新田義貞は自害。」との情報が東北地方にも伝播するにつれて、顕家に付き従っていた者は、一人去り、二人去りして、彼の勢力は微々たるものとなってしまった。

今はわずかに、伊達郡(だてごおり)の霊山城(りょうざんじょう:福島県・伊達市)のみを拠点として確保するのみ、有名無実の存在になっている。

このような所に、「陛下が京都を脱出されて吉野へ潜行、新田義貞は北陸地方を征圧。」との情報が飛びこんできて、またまた人心は一変、顕家の徴兵に応ずる者が多くなってきた。

北畠顕家 時節到来! いよいよ、軍を動かす時が来たわ。よぉし、この地域一帯に廻文を廻して、兵を募るとしよう!

顕家の呼びかけに応じて、結城宗広(ゆうきむねひろ)をはじめ、伊達(だて)、信夫(しのぶ)、南部(なんぶ)、下山(しもやま)6,000余騎が、馳せ参じてきた。

その他の勢力も加わって兵力3万余騎にまで膨張した北畠軍は、白河関(しらかわぜき: 福島県・白河市)まで歩を進めた。

やがて、奥州54郡の勢力のあらかたがそこに加わってきて、ついに、総勢10万騎を数えるに至った。

北畠顕家 よぉし、行くぞぉ! まずは鎌倉を攻め落とすんや。それから京都やぁ!

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建武4年(1337)8月19日、北畠軍は白河関を進発し、下野国(しもつけこく:栃木県)へ入った。

当時、鎌倉にあって関東地方の行政を委ねられていたのは、足利尊氏の子・義詮(よしあきら)であった。

北畠軍侵攻の報を聞いて、足利義詮は、上杉憲顕(うえすぎのりあき:注1)、細川和氏(ほそかわかずうじ)、高重茂(こうのしげもち)ら3人に、武蔵、相模の軍勢8万騎をそえて、利根川ぞいに防衛ラインを敷かせた。(注2)

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(訳者注1)[山内上杉家]のルーツとなった人。

(訳者注2)原文では、「鎌倉の管領足利左馬頭義詮此事を聞給て」とあるのだが、義詮は当時、まだ10歳に満たないから、名目だけの「管領」であったろう。実際には、有力な家臣たちが行政を担当していたのであろう。
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やがて、北畠と足利の両軍は、利根川を挟んで東西の岸に対峙。相手よりも先に利根川を渡ってしまおうと、双方ともに適当な渡河地点を探したが、折りからの上流地帯に降った雨のせいで川の水位は増しており、逆波が高く漲(みなぎ)っている、浅瀬の有無を尋ねようとしても、それを問うべき渡守(わたしもり)もいない。

両軍共に、水位が低くなるのを待つうちに、徒に一昼夜が過ぎていった。

この時、北畠サイドに加わっていた長井斉藤実永(ながいのさいとうさねなが)という者が、顕家の前に進み出て、

長井斉藤実永 古から現代に至るまで、川を挟んでの戦、そりゃぁたくさんあったけんどよぉ、先に川を渡った方が、必ず勝ってるんだなぁ。この目の前の川、増水して通常より深くなってるったってぇ、宇治(うじ)や瀬田(せた)、藤戸(ふじと)、富士川(ふじがわ)(注3)よりも深い、なんてこたぁねえでしょぉ。敵に渡られるより先に、こっちが川を渡っちまって、勇を奮って戦を挑むに限るってぇ。そうすりゃぁ、勝利はまちがい無しですわさ。

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(訳者注3)いずれも、源平争乱時代の戦場である。
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北畠顕家 そうか、そうか。戦の事は、勇士に任せとくに限るわなぁ。よし、ここは、おまえに任せた、好きにやってみぃ!

長井斉藤実永 あいよ!

実永は、大いに喜び、馬の腹帯をかため、兜の緒を締め、川岸へ進む。

長井斉藤実永 さぁ、いっくぞーぉぃ!

それを見て、いつも先駆け争いをやっている部井十郎(へいのじゅうろう)と高木三郎(たかぎさぶろう)が、脇目もふらずにたった2騎、いきなり川へ馬を懸け入らせた。

部井十郎 今日の合戦の先駆けがいったい誰だったか、後日、問題になった時には、

高木三郎 この川の神さまに、聞いてみるがいい!

二人は、川を斜めにつっきり、ぐいぐい進んで行く。

これを見た実永とその弟・次郎は、

長井斉藤実永 えぇい、もぉ! 先を越されたぁ!

長井斉藤次郎 おんもしろくねぇなぁ。他人が先に渡っちまった所を、後から渡ったって、なんの名誉にもなりゃしねぇ。

長井斉藤実永 他の所を渡ろうぜ。

彼らは、そこから3町ほど上流の瀬を、たった2騎で渡り始めた。しかし、逆巻く高波に二人は巻き込まれてしまい、馬も人も水面から没して、水の底に沈んでしまった。

北畠軍メンバーA あぁ、二人とも、なすすべもなく、川に溺れてしまやがった。

北畠軍メンバーB 彼らの屍(しかばね)は、急流の底に漂う。

北畠軍メンバーC だけんどなぁ、長井斉藤実永と次郎、二人のその武名は未来永劫、墓標に刻まれるだろうよ。

北畠軍メンバーD そうだよな・・・白髪を黒く染めて戦に臨み、戦死したあの斉藤実盛(さいとうさねもり:注4)の子孫だけのことはある。

北畠軍メンバーE 先祖の名を再び輝かすような、なんと立派な最期。

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(訳者注4)「平家物語・巻第7・実盛」に登場する武士。
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斉藤兄弟の勇に励まされて、北畠軍10万余騎、一気に川に飛び込み、一直線に川を進んだ。

それを見て、足利軍8万余騎も一斉に川に入った。

両軍、川中で勝負を決しようとした。

先に川に入った北畠軍の人馬によって、川の東側の流れが塞き止められ、水流が川の西側に集中、その流れは、黄河上流・龍門三級の瀑布のごとくである。

この激流に、足利軍の先陣3,000余騎の組んだ馬筏(うまいかだ:注5)が押し破られてしまい、浮きつ沈みつしながら、川を流されて行く。

これを見た足利軍後陣は、渡河をあきらめ、川の中程から引き返した。

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(訳者注5)馬を繋ぎあわせ、密集して川を渡る陣型。
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その後、平場で戦陣を立て直した足利軍であったが、一度退いてしまった軍ゆえにその勢いは弱い。北畠軍に縦横無尽に蹴け散らされてしまい、全軍、鎌倉へ撤退していった。

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利根川の戦に勝利して、北畠顕家の勢いはますます強大になっていった。しかし、鎌倉にはなおも、関東8か国の足利側勢力がひしめいていて、その兵力は雲霞のごとし。ゆえに、顕家は武蔵国府(東京都・府中市)に5日間逗留し、鎌倉の情勢を探った。

このような中に、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)が、紀清両党(きせいりょうとう)1,000余騎を率いて北畠軍に参加してきた。

ところが、宇都宮家臣・清党の芳賀禅可(はがぜんか)だけは北畠軍に参加せずに、公綱の子・氏綱(うじつな)を大将として、宇都宮城(栃木県・宇都宮市)にたてこもっている。

顕家は、伊達、信夫の武士2万余騎を差し向けて、宇都宮城を攻めさせた。

3日後、城は落ち、芳賀禅可は降伏。しかし、その4、5日後、禅可は再び、足利サイドに走ってしまった。

この時既に、後醍醐天皇から赦免を取り付けていた北条氏生き残りの北条時行(ほうじょうときゆき)は、伊豆国(いずこく:静岡県東部)で挙兵し、足柄山(あしがらやま)と箱根(はこね:神奈川県・足柄下郡・箱根町)に陣取っていた。

時行は、顕家に対して、「時を同じくして鎌倉を攻めよう」との提案を送った。

また、新田義貞の次男・義興(よしおき)も、上野国(こうずけこく:群馬県)で挙兵し、2万余騎を率いて武蔵国へ進み、入間川(いるまがわ:埼玉県・狭山市)で軍勢を招集。「もし、北畠軍の進行が延引するようであれば、他の友軍を頼りにせずに、自分たちだけで鎌倉を攻めよう」との作戦を決した。

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鎌倉では、上杉憲顕、上杉憲藤(うえすぎのりふじ)、斯波家長(しばいえなが)、桃井直常(もものいなおつね)、高重茂以下、足利一族・家臣の主なメンバー数十人が、大将の足利義詮の前で作戦会議を行った。

足利軍リーダーF いやぁ、利根川の合戦の後、我が軍はみんな、ガックリきちゃっててねぇ。

足利軍リーダーG 毎日のように、兵力が減っていく。みんなどんどん、逃げ出してっちゃう。

足利軍リーダーH 敵の方は勢いに乗って、ますます増強されていってるってのになぁ。

足利軍リーダーI 今ここでもう一度戦ってみても、とても勝ち目、ねぇでやんしょう。

足利軍リーダーJ ここはいったん、安房(あわ:千葉県南部)、上総(かずさ:千葉県中部)方面へ撤退してだね、関東八か国の勢力がどっちへ付くかを見極めながら、情勢の変化に応じて、その有利不利をよっく見極めながら、戦っていくってカンジでどうかねぇ?

足利軍リーダーF そうだなぁ。

足利軍リーダーG やっぱし、鎌倉から撤退するしかねぇかぁ。

足利軍リーダーH うーん、まいったなぁ。

足利軍リーダーI 撤退、撤退、撤退あるのみだぁ。

足利軍リーダーF そうだなぁ・・・。

足利軍リーダーG うーん、でもなぁ・・・

このように、作戦会議はダラダラと続いていくだけで、一向に、潔い意見が出てこない。

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