太平記 現代語訳 12-1 後醍醐天皇の新政、スタート

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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後醍醐(ごだいご)帝が再び、天皇に即位された後、[正慶](しょうきょう)の年号は廃帝(注1)が定めた年号であるから、ということで、これを廃棄し、もとの[元弘](げんこう)に戻された。

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(訳者注1)光厳(こうごん)先帝。
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元弘3年夏、今後の国の政治についての指針を一気に決定し、賞罰法令に関してはすべて、朝廷専決で、という事になった(注2)。まさに、「異風俗の民が帝徳に伏すること、霜を払って春日に照らすがごとく、中国の民が法令規範を懼れること、刃を踏み、雷を頂くがごとし」との、言葉の通りとでも言うべきか。

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(訳者注2)ようは、「これからの国政は、天皇と公家だけで決めて行っていく。それ以外の人間(特に、武士)は、政治に口出ししてはならない」という事にしたかった、ということであろう。
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同年6月3日、「あの護良親王(もりよししんのう)殿下は今、志貴山(しぎさん)の毘沙門(びしゃもん)堂(注3)におられる」との情報が流れた。すると、畿内とその近隣エリアの者たちは言うに及ばず、京都や遠国の武士たちまでもが、我先にと、親王の下に馳せ参じていき、天下の大半が親王の配下になってしまったかと思われるほどの、膨大な人数がそこに集まることとなった。

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(訳者注3)朝護孫子寺(奈良県・生駒郡・平群町)。
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「6月13日に、親王殿下、京都へ御帰還されるべし」と、朝廷で決せられたのだが、

武士A そやけど、その御帰還のタイミングが、ずるずる先延ばしになってしもてるやんかぁ。

武士B そうやなぁ、これといった理由も無しになぁ。

武士C わし、ちょっと気になる情報、キャッチしてるんやわ。

武士A え? どないな情報や?

武士C 殿下、諸国の武士らに、招集かけてはるそうやでぇ。

武士D わしも、そんな話、聞いてるわ。殿下の方から招集がかかってきてな、「盾(たて)、作れぇ、鏃(やじり)、砥(と)げぇ」てな事、言うてきはるんやて。

武士E それ、戦の準備せぇっちゅうことやんか。

武士B はぁー、もう・・・殿下の次の戦の相手、どこの誰やねん?

京都中の武士たちは誰もかも、心中穏やかでない。

事態を憂慮した後醍醐天皇は、坊門清忠(ぼうもんきよただ)を勅使として、親王のもとに遣わした。

坊門清忠 陛下よりのメッセージ、お伝えさせていただきます。

 「天下はすでに鎮まり、七徳の余威をもって、九功の大化を成した状態である。しかるに、なおも軍備を整え、士卒を招集していると聞いているが、それはいったい、何のためなのか?」

 「先日までは、天下騒乱状態であったゆえに、敵の難を逃れるために、そちは、出家から世俗の姿に戻ったのであった。しかし、すでに世は、静謐(せいひつ)の中にある。よって、速やかに、元の、剃髪(ていはつ)・墨染衣(すみぞめごろも)の姿に戻り、延暦寺座主(えんりゃくじざす)としての務めに専念すべし。」
 
護良親王 清忠、もうちょっとこっちへ・・・僕の近くへおいで。

坊門清忠  ははっ!(親王の近くへ移動)

護良親王 あのな、帰ったらな、陛下に、次のように申し上げてくれへんか。

 「今、天下ことごとく一時のうちに静まり、万民は平和な暮らしに休んじる事ができるようになりました。これは、陛下の至高の御徳にあわせ、この私めの戦略立案の功績によるものです。」
 
 「しかるに、あの足利高氏(あしかがたかうじ)は、わずか一回の戦勝の功績を拠り所に、その野心をもって、万人の上に立とうと、しておりますよ。その力がまだ小さい今のうちに、彼を討ち取っておかなければ、北条高時(ほうじょうたかとき)の逆悪を、高氏の威勢に加えるような事になってしまいますでしょう。それゆえ、このように軍備を整え、兵を集めているのです。私のこの行為には、なんの問題もありません。」

 「仏門に戻る件については・・・その兆(きざし)が実際に現れてきてからでないと、事の起こることを察知できないような、先の見えない連中らは、きっと私の事を、「いったいなに考えとんねん、あれはぁ」と、いうような感じで、見ておることでしょう。」
 
 「しかし、逆徒・北条氏が思いがけなくも滅びて、今や世は天下太平、とは言いながらも、なおも北条に心寄せる連中らがすきをうかがい、好機到来したればそく決起を、と、じっと待ちかまえておりますよ。そのような危機的状況にあっては、上に威力が無ければ、下は必ず暴慢の心を持つというもの。ならば、文武二道共に備えてこそ、政治を遂行しうる、というのが、今の世の中の情勢です。かりに、私がこの猛虎のごとき武威を捨てて、出家の身に戻ってしまったとなったならば、いったいどこの誰が、武力をもってして、朝廷を守れるというのでしょう?」

 「諸仏菩薩(しょぶつぼさつ)においても、衆生(しゅじょう)を利益(りやく)する方法として、折伏(しゃくぶく)と摂受(しょうじゅ)の二つを使い分けられるのです。摂受においては、柔和と忍辱(にんにく:注4)の姿を示して、まず慈悲を先にします。一方、折伏においては、大いなる威勢と憤怒を表し、刑罰をもって宗(むね)とします。」

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(訳者注4)サンスクリット語で、[Kṣānti クシャーンティ]。耐え忍ぶこと。六波羅密の中の一つ。
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 「聖明の君主が、賢明なる補佐の臣や、才能ある武将を得るために、出家した人間を還俗させる、あるいは、出家した君主自らが、再び帝位に登る、というような事は、日本でも中国でも、過去に多々あった事ですよ。例えば、賈嶋浪仙(かとうろうせん)は、僧侶から転じて朝廷の臣となりました。わが国の例を見るならば、天武(てんむ)天皇や孝謙(こうけん)天皇は、出家されて後、再び、帝位につかれました。比叡山の幽谷の中に暮らしてわずかに一門跡の地位を守る人生、かたや近衛府の上将軍に就任して天下こごとくを鎮める人生、どちらの人生を私が選ぶ方が、国家の為になるとお考えでしょう?」

 「とにかくこの二カ条、すなわち、高氏討伐と将軍位就任のお願い、速やかにお許し下さいますよう、なにとぞ、お願いいたします。」

このように殿下は、メッセージを託した後、清忠を天皇のもとに帰らせた。

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御所へ帰参した坊門清忠は、さっそく陛下に報告した。

坊門清忠 ・・・とまぁ、このように、殿下はおっしゃるんですわ。

後醍醐天皇 そうかぁ・・・護良は、征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)になって、武備の守りをかためたいと言うんやな。朝廷の為ならば、人の嘲りをも顧みずというわけかいなぁ。うーん・・・。

坊門清忠 ・・・。

後醍醐天皇 そやけどなぁ、高氏を討てとは、またまた、ムチャな事を・・・高氏には何ら、朝廷に逆らうような気配は無いやろぉがぁ!

後醍醐天皇 考えてもみぃやぁ、今ようやっと、天下太平の世の中になったとは言うてもやでぇ、国中の武士連中は、未だに恐れおののいて、疑心暗鬼状態やがなぁ。そないな状態のとこにやでぇ、罪もない人間を罰に処すなんてこと、してみいな、みな、ビビリきってしまいよるやろがぁ。

後醍醐天皇 よっしゃ、征夷大将軍の件はオーケーとしょ。そやけど、高氏の件の方は、ノー(no)や!

陛下は、このように決定されて、征夷大将軍任命令を、護良親王に下された。

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このような事があって、ようやく護良親王の憤りもおさまったのであろう、6月17日に志貴山を出立、八幡(やわた:京都府・八幡市)に7日間逗留の後、同月23日に京都へ入られた。

その行列の様は、まさに、天下の壮観。

まず先頭を行くは、赤松円心(あかまつえんしん)、1,000余騎にて前陣をかためる。

二番手、殿法印良忠(とののほういんりょうちゅう)率いる700余騎。

三番手、四条隆資(しじょうたかすけ)率いる500余騎。

四番手、中院定平(なかのいんさだひら)率いる800余騎。

その後方に、華やかに鎧を着こなした選りすぐりのツワモノたち500人より構成の帯刀(たてはき)グループが、二列で歩む。

それに続いて、護良親王が。

赤地錦の鎧直垂(よろいひたたれ)に火威鎧(ひおどしよろい)の裾金物(すそかなもの)、牡丹の花陰に遊ぶライオンが前後左右に追い合う、といった図柄の長い草ずりを召され、兵庫鎖(ひょうごくさり)の丸鞘の太刀、虎の皮の尻鞘がけが、太刀懸けの途中に結わえられている。

高々と背負う矢はずには、矢が36本。矢竹は節陰(ふしかげ:注5)の部分にだけ漆が塗られた白篦(しらの:注6)、矢羽根は、白鳥の羽。二所藤(ふたところどう)の銀製のツクを打った弓を、十文字に握りしめ。

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(訳者注5)節の付近のくぼんだ部分。

(訳者注6)焦がしたり漆を塗ったりしていない矢竹。
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尾もたてがみもふさふさとして、太くたくましい川原毛の馬上に、金粉を置いた漆塗りの鞍を置き、馬の尻には厚い房のついた、たった今染め出したかのような芝打ちを長くかけ。侍12人に馬の両側に綱ひかせ、都の道路も狭しとばかりに、馬に千鳥足を歩ませながら進み行く護良親王。

親王の後方には、千種忠顕(ちぐさただあき)が、1000余騎を率いて続く。

現在に至ってもなお、警戒の必要あり、信頼のおける兵でもって非常事態に備えるべし、ということで、諸国の武士たち3000余騎、全員甲冑を帯して、静かにそれに続く。

後陣を守り行くは、湯浅権大夫、山本忠行、伊東行高、加藤光直ら、畿内とその周辺の者たち、あわせて20万7,000余騎。

その行進は実に、3日間にもわたって続いたのであった。

「時は移り事は去って、万事昔と替るは世のならい」とはいいながら、天台座主の地位にあった出家の人が、たちまち将軍就任の宣旨(せんじ)を受け、甲冑を帯し随行の兵を召し具しながら京都へ入って来るとは・・・いやはや、これはまことに、稀代のミモノと言うより他、ないであろう。

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その後、宗良親王(むねよししんのう)は、四国勢を伴って、讃岐国(さぬきこく:香川県)から京都へ帰還された。

万里小路藤房(までのこうじふじふさ)は、預かり人の小田兼秋(おだかねあき)とともに、常陸国(ひたちこく:茨城県)から帰還してきた。

万里小路季房(までのこうじすえふさ)は、流刑先で死去してしまっていたので、二人の父・宣房(のぶふさ)は、喜びの中の悲哀、老後の涙は袖に満つ、という心境である。

法勝寺(ほうしょうじ:注7)の円観上人(えんかんしょうにん)も、預かり人の結城宗広(ゆうきむねひろ)につきそわれて京都へ帰還。上人がつつがなく帰ってきた事を喜び、後醍醐天皇は宗広に、領地安堵の綸旨(りんじ)を下された。

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(訳者注7)京都市・左京区の、現在、京都市動物園があるあたりにあった。
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文観上人(もんかんしょうにん)も、硫黄島(いおうじま:鹿児島県)より帰還。

忠円僧正(ちゅうえんそうじょう)も、越後国(えちごこく:新潟県)より帰還。

このようにして、笠置寺の合戦の後に、解任・失脚の憂き目にあった人々、あるいは死罪・流刑に処せられた人の子孫たちは、ここかしこから召し出されて、一気に蟄居(ちっきょ)の憂いを晴らす事となった。

これまで武威を誇り、荘園の本所領主層をないがしろにしてきた権門高家の武士たちは、いつしか方々の公家の館の奉公人になり下がってしまい、あるいは、公家たちの乗る美麗な車の後ろを走り、あるいは、公家の家に仕える身分低い侍の前にひざまずき、というような状態に、なってしまった。

武士H (内心)まぁ、シカタねぇやなぁ、嘆いてみてもぉ。

武士I (内心)世の盛衰、時の転変は、いつの時代にもある事なんやから。

武士J (内心)とは言うもんのなぁ・・・今のように、公家が何もかも牛耳ってしもとる世の中、もうほんま、おもろないでぇ。

武士K (内心)諸国の地頭や御家人と言ぅてみたところで、みぃんな、奴隷か身分低い雑人同様の境遇だがね。

武士L (内心)あーあ、何でもいいから、またトンデモねぇ事でも起こってくれてよぉ、武士のトップが、国家権力握ってたあの状態に、戻ってくれねぇもんかなぁ・・・。

このような思いを抱く人の数が、とても多かったのである。

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「討幕軍に参加した人々に与える恩賞に関する検討を、8月3日より、開始せよ」、ということになり、洞院実世(とういんさねよ)が、その検討会議の議長に任命された。

これを聞いた諸国の武士たちは、みな一斉に、軍功を証明する証拠を集め、恩賞下付申請書を握り締めて、京都にやってきた。恩賞を望む人の数は幾千万人、とても数えきれない、といった状態である。

天皇に対して真に忠義を尽くした人々は、その功を頼んで何ら諂(へつら)うような事が無かったのだが、何の忠義も果たしていない者たちが、天皇に近い有力者に媚びを送り、寵臣のご機嫌を取って、天皇をだまくらかし始めた。

かくして、数か月かけて、わずか20余人の恩賞がようやく定められたのであったが、すぐに、正しい道筋に則っての決定が行われていない、よって、その決定は取り消し、ということになってしまった。

議長をチャンジしてやり直し、ということになり、今度は、万里小路藤房を議長に任命し、洞院実世から、申請書すべてを引継がせた。

任命を受けた藤房は、各自の功績の有無とその大小を判定し、その結果に基づいて、恩賞を決定しようと、考えていた。

ところが、「内奏」という名の秘計を用いて(注8)、これまで天皇に敵対する側にいた者までもが、領地を安堵され、何の功績も無い者らが、5か所、10か所と、どんどん所領を賜っていく。

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(訳者注8)天皇に近い場所にいる人々(近臣グループや、後宮の)に、天皇への口ききを依頼して、恩賞を得るのである。
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このような事態に直面してしまっては、藤房も、天皇に対して諫言(かんげん)の申しあげようもない。ついに彼は、病と称して、恩賞検討会議・議長の職を、辞任してしまった。

このままの状態で放置しておくわけにはいかない、ということで、今度は、九条光経(くじょうみつつね)を議長に任命して、恩賞決定の任に当たらせた。

光経は、諸将たちに、それぞれの部下たちの功績を詳細に問い、その回答に基づいて、恩賞を決定しようと考えた。ところが、

後醍醐天皇 北条高時の旧領はな、朝廷の経済をまかなう為の、天皇家の領地にするでぇ!

後醍醐天皇 高時の弟の泰家(やすいえ)の領地か、うん、あれは、護良にやるぞぉ。

後醍醐天皇 廉子(れんし)には、どこの土地をやろかいなぁ・・・よぉし、大佛貞直(おさらぎさだなお)の旧領、あれを、彼女へのプレゼントに!

その他、北条一族とその郎従らの旧領が、これといった功績もない歌手や歌姫、蹴鞠(けまり)プレイヤー、芸人たち、諸官庁の官吏や宮中女房、僧正(そうじょう)、僧都(そうず)ら高僧にまで、彼には、あの領地を1か所、彼女には、あそことあそこの領地を2か所、といったぐあいに、次々と下付されていく・・・全て、内奏によって・・・。

気がついて見たら、真に功績あった者らに与える為の領地が、日本66か国中わずか寸土さえも残り無し、といった状態になっていた。「何とかして、公平な恩賞の決定を」と、思う光経の思いも空しく、時間だけが徒らに過ぎ去って行く。

様々なモメゴトを裁決するための機関が必要、ということになり、郁芳門(ゆうほうもん)の左右の脇に、雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)が設けられた。裁決担当メンバーとして、学識見識に優れた公家、殿上人、博士、庶務官、中堅官僚らを3グループに分け、1月に6回の裁判日を定めて、これに当たらせた。

この雑訴決断所、うわべだけ見れば、いかにも厳重にして堂々たる裁決が行われているようには見えるが、その実、世を治め国を安んじるような司法の場であったとは、とても言い難い。

ある時には、内奏により、原告側に領地付与の決定が下される一方で、雑訴決断所において、被告側に有利な判決が下される。またある時には、雑訴決断所において、元の領主に対して領地安堵の裁決が下されると同時に、内奏によって、その同じ地が別人に恩賞として与えられ、といった始末である。

このようにして、領地所有の問題は、錯綜の上に錯綜を重ね、領地1か所に対して領主が4、5人も出現してしまい、といった状態。

このようなわけで、諸国の混乱は一向に、止む気配がない。

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7月の初め頃から、中宮・禧子(きし)は病に伏しておられたが、8月2日、ついに亡くなられた。

11月3日には、皇太子までもが、帰らぬ人になられた。(注9)

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(訳者注9)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]および[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注に、この時期にはまだ、後醍醐天皇は皇太子を立てていない、との趣旨の事が記されている。
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臣下M これは、タダゴトではありませんなぁ。

臣下N きっと、先般の戦乱の中に死んでいった人々の怨霊(おんりょう)の、なせるわざですわ。

後醍醐天皇 そういう事やったら、その怨念からもたらされる害をストップし、怨霊らを、極楽浄土へ行かしめよう。

そこで、大寺院4か所に命じて、大蔵経5,300巻を1日の中に写経させ、法勝寺において、速やかに供養を行わせた。

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