太平記 現代語訳 14-3 矢作、鷺坂、手超の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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11月25日午前6時、新田義貞(にったよしさだ)・脇屋義助(わきやよしすけ)兄弟率いる6万余騎の軍勢は、矢作川(やはぎがわ)西岸沿いに展開した。

対岸の足利陣を見渡してみれば、その軍勢は2、30万騎もあるだろうか、橋の上流、下流一帯30余町ほどの範囲に、雲霞(うんか)のごとく充満している。

義貞は、長浜六郎左衛門(ながはまろくろうざえもん)を呼び寄せた。

新田義貞 この川のどこに、渡れる場所があるんか、よっく見てこいや。

長浜六郎左衛門 はっ!

六郎左衛門は、ただ一騎で川の上流と下流を見て回り、帰ってきていわく、

長浜六郎左衛門 見てきました。渡れそうな所は3か所。でもねぇ、どこも、対岸は屏風を立てたように高くなってる。その上で、敵が鏃をそろえて待ち構えてましたよ。

新田義貞 うーん、そうかぁ・・・。

長浜六郎左衛門 こっちから先に川を渡ったら、そりゃもう、敵の思うツボですわぁ。いましばらく、こちらの河岸にじっとひかえて、敵をこっち側の岸におびき寄せるのが、いいんじゃないでしょうか。

長浜六郎左衛門 そのうちきっと、あっちサイドは、川を渡ってきますよ。そこをすかさず迎えうって、足利のヤツラを川の中に追い落としてねぇ、痛いメにあわせてやるんですわ! そうすりゃぁ、一気に勝利を得られます!

新田軍リーダーたち その作戦が、いいと思います。

新田義貞 よぉし!

足利軍の渡河をうながすために、新田軍はわざと、川の西岸に馬を駆けさせるスペースを大きく空け、矢作西の宿のはずれのあたりに、南北20余町に渡って陣営を展開した。そして、川中に砂州が突き出た所に射手を繰り出し、そこから足利陣に対して遠矢をさかんに射させて、相手を挑発した。

新田軍サイドの作戦通りに、足利軍サイドの、吉良満義(きらみつよし)、土岐頼遠(ときよりとお)、佐々木道誉(ささきどうよ)らの軍6,000余騎が、上流の瀬を渡り、新田軍左翼の、堀口(ほりぐち)、桃井(もものい)、山名(やまな)、里見(さとみ)の陣を攻撃。

それを迎え撃つ新田軍左翼5,000余騎は、真正面から足利軍と激突。双方互いに命を惜しまず、火花を散らしながら、戦い続けた。

やがて、吉良満義は、300余騎を討たれて本陣へ退却、新田側も、戦死者200余騎。

足利軍サイド2番手は、高師直(こうのもろなお)・師泰(もろやす)兄弟率いる2万余騎。橋の下流の瀬を渡り、新田軍右翼の、大嶋(おおしま)、額田(ぬかだ)、籠澤(こもりざわ)、岩松(いわまつ)の陣を攻撃。

新田軍右翼7,000余騎は、怒濤のごとく寄せ来る高軍のど真ん中に突入の後、東西南北へと駆け散らす。

1時間ばかりの両軍死闘の後、高軍は、戦死者500余騎の損害を被って、本陣へ退却。

足利軍サイド3番手の、仁木(にっき)、細川(ほそかわ)、今川(いまがわ)、石塔(いしどう)らの軍1万余騎は、下流の瀬を渡り、総大将・新田義貞の本陣を攻撃。

自らの周囲に精鋭7,000余騎を配置していた義貞は、天下にその名も轟く大力の武者・栗生(くりふ)、篠塚(しのづか)、名張八郎(なばりのはちろう)を軍の先頭に立たせ、折り畳み式盾を隙間なく並べたてた長さ8尺ほどの鉄棒を押し立てて、足利軍サイドの攻撃を受け止めさせた。

新田義貞 敵が攻めかかってきてもな、自分勝手に応戦しちゃ、ダメだぞ! 敵が退いても、態勢整えないで追撃しちゃ、いかん! 敵に接近して、切り倒せ! あっちが中央突破かけてきたら、馬を隙間なく集め、くつばみ並べて戦え! とにかく、敵陣に向かって、前進あるのみだぁ! 全員、一歩も退くなぁ!

新田軍一同 オォー!

全軍を一糸乱れず統率していく義貞の指揮の前に、足利軍サイドは徐々に、形成不利に傾いていった。

陣形を縮小して、新田軍を包囲しようとしても、それもかなわず、陣形を広げて、相手の陣を乱そうとしても、新田軍は微塵の乱れも見せない。ひるむ気配を全く見せずに、奮戦を続ける足利軍ではあったが、相手陣中に駆け入っては討たれ、割って通れば切って落とされ、人馬共に、疲労の色が次第に濃くなってきた。

そしてついに、張りつめ続けていた気も緩んでしまったのであろうか、左右に分かれて、戦いの手を休めた足利軍の様子を見て、義貞は、

新田義貞 さぁ、総攻撃開始だぁ! 行くぞぉ!

新田軍一同 ウオオオオーーーーー!

総大将・新田義貞、副大将・脇屋義助率いる7,000余騎は、巨大な象が波涛を踏んで大海を渡るがごとくの勢いをもって、しずしずと馬を前進させ、切っ先を並べて、足利陣へと迫っていく。これにたじろいだ足利軍1万余騎は、多数の戦死者をその戦場に残したまま、矢作川東岸へ退却していった。

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もうすでに日も暮れた、合戦はまた明日、ということで、足利軍は、東岸に陣を取ったのであったが、いったい何を思ったのであろうか、この場所ではとうてい、新田軍を防ぎきれない、ということで、その夜、矢作川から退却し、鷺坂(さぎさか:静岡県・磐田市)に陣を取り直した。

このような状態の時に、宇都宮(うつのみや)、仁科(にしな)、愛曽伊勢守(あそいせのかみ)、熱田摂津大宮司(あつたのせっつのだいぐうじ)の軍勢3,000余騎が、戦いに遅れて、新田陣に合流してきた。

[矢作川西岸の戦]に間に合わなかった事をしきりに残念がった彼らは、休息も取らずにそのまま鷺坂へ押し寄せ、矢を一本を射ずに、いきなり足利軍に襲いかかっていった。

足利軍は、ここ鷺坂においても新田側に対抗できず、浮き足立って退却するばかり。ところが、新手(あらて)の軍勢2万余を率いた足利直義(あしかがただよし)が到着。足利軍はこれで元気を取り戻し、手超(てごし:静岡県・静岡市)に、陣を敷き直した。

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矢作川と鷺坂の戦の後、足利軍サイドから降伏してきた軍勢をあわせて8万余に膨張した新田軍は、12月5日、さらに前進し、手超河原に到着した。

新田義貞 (足利側陣を観察しながら)敵サイドに、新手が加わったようだなぁ。こないだよりも、数、増えちゃってる。

脇屋義助 なぁに、敵サイドに何百万人の軍勢が加わったからって、別にどうってこたぁねぇよ。こないだからの連戦連敗で、怖気づいちゃってる連中が、あの中に大勢いるだろう。そいつらが、後陣の方から退きだしたらさぁ、敵はもう、陣を立て直すことなんか、できねぇよ。

新田義貞 なるほど。

脇屋義助 ここはとにかく、真っ正面からガンガン攻めてみようよ。

新田義貞 よぉし!

ということで、脇屋義助、千葉、宇都宮ら6,000余騎が、手超川原に押し寄せていった。

両軍は、川を東西に渡しつ渡されつ、正午から午後6時過ぎまで、17回、戦った。

夜になり、両軍は川の両岸に分かれ、かがり火を焚いて人馬を休めた。

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月が雲に隠れ、夜もだいぶ更けてきた頃、足利軍の後陣に接近していく一群の姿が・・・藪の中を進んでいく彼らは、新田軍の中から選抜された射撃コマンド部隊メンバー、弓の技に勝れた者たちである。

コマンド部隊リーダー よぉし、このへんでいいだろう。足利軍の後陣の方へ、バンバン、射ってやれ!

コマンド部隊全員の弓 ピューン、ピューン、ピューン・・・。

コマンド部隊全員 ・・・(黙々と、矢を射続ける)。

足利軍・後陣メンバーA うわっ、なんだ、なんだ?!

足利軍・後陣メンバーB 敵だ、敵だ!

足利軍・後陣メンバーC 来たぞ、来たぞ!

足利軍の後陣は、パニック状態となり、退却しはじめた。これが引き金となり、全軍数万の敗走が始った。

足利軍リーダーD おいおい、おめぇら、いってぇどうしたんだい!

足利軍リーダーE 逃げるな、逃げるなぁ!

新手の者らや命を惜しまぬ者らも、敗走の激流に巻き込まれてしまい、足利軍メンバーは全員、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)まで逃げ帰ってしまった。

このようにして、新田義貞は数箇所の戦いに連戦連勝、ついに、伊豆国府(いずこくふ:静岡県・三島市)に到着。足利軍サイドから、弦(つる)を巻き、兜を脱いで、新田軍サイドに降伏してくる者の数は、おびただしかった。

宇都宮貞泰(うつのみやさだやす)は、宇都宮家の総領・公綱(きんつな)が新田軍サイドにいるので、そのツテを頼って、新田軍サイドに投降してきた。

佐々木道誉(ささきどうよ)も、深い刀傷を身体の方々に負ってしまい、弟の貞満(さだみつ)は手超の戦で戦死してしまったので、「もうダメだ」と前途を見限ってしまったのであろうか、降伏してしまった。ところが・・・その後、新田軍の前陣に加わった道誉は、後日の箱根の合戦の際に、またもや、足利軍サイドへ寝返りをうったのである。

この時、新田軍が、間をおかずにそく、足利軍を追撃していたならば、足利軍は、もはや鎌倉にさえも、踏みとどまる事ができなかったであろうに・・・。

新田軍リーダーF もう、勝負は決まったも同然。

新田軍リーダーG これ以上何もしないでも、関東のモンらは、我々サイドに、降伏してくるでしょう。

新田軍リーダーH 東山道を進んでる、からめ手方面軍を、ここで待つのが、いいんじゃぁないでしょうかねぇ。

新田義貞 だよなぁ。

ということになり、新田軍は、伊豆国府にそのまま逗留し続けてしまった。

「何事も天運の定め」とはいうものの、いやはや、実に惜しいチャンスを、逸してしまったものである。

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やっとの思いで鎌倉へたどりついた足利直義は、戦況報告のため、尊氏邸へ急いだ。

足利直義 (内心)早く、戦況を兄上に知らせないと・・・あれ、いったいどうなってんだ? 兄上の館、四方の門がみんな閉じちゃってる・・・館の周辺にも人がいないな。

足利直義 (門を荒々しく叩く)

門 ドンドンドンドン!

足利直義 おおい、誰かぁ!

中から、須賀左衛門(すがさえもん)が出てきた。

足利直義 おい、どうなってるんだ?!

須賀左衛門 いやいや、もう、タイヘンなんですよ!

足利直義 何があった?

須賀左衛門 矢作川の敗戦の報(しらせ)をお聞きになられてね、将軍様、いきなり、建長寺(けんちょうじ:鎌倉市)にこもってしまわれたんですよぉ! 「わしはこれから出家する」なんて、言い出されましてねぇ・・・で、それを、周りの方々が、必死に止めまして。

足利直義 もう、出家してしまったのか?

須賀左衛門 いえ、まだです。側近の方々が、なんとか食い止めております。本結(もとゆい:注1)はもう、切ってしまわれましたが、出家の姿にまでは、まだ・・・。

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(訳者注1)髷(まげ)を結わえる紐(ひも)。
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足利直義 ウーン・・・。

高家メンバーI そんなぁ・・・尊氏様が出家しちまったら・・・。

上杉家メンバーJ みんな、落ちこんじゃうよぉ。

足利直義 ・・・。

高家と上杉家のメンバー一同  ・・・。

上杉重能(うえすぎしげよし) ・・・あのね・・・「たとえ出家して、お坊さんの姿になったとしても、天皇からの赦免を得ることは、もはや絶望的。」・・・と、いうような事をですよ、もしも、尊氏様がお聞きになられたとしたら、いったい、どうなるでしょうかねぇ?

メンバー一同 ・・・。

上杉重能 きっと、尊氏様は、出家しようなんて思い、捨てられるんじゃないでしょうかねぇ?

足利直義 そうなるかもな。

上杉重能 そういった趣旨の事が書かれてるような天皇命令書をね、尊氏様のお目にかければ、いいんじゃないでしょうか。

足利直義 天皇命令書? そんなの、どこにあるんだ?

上杉重能 どこにもありません。だから、作るんです。

メンバー一同 ???

高家メンバーI それって、もしかして・・・偽造するってこと? 天皇命令書を。

上杉重能 そう、作るんだよ。天皇命令書を二三通作ってね、尊氏様に見せるんだよ。

メンバー一同 ・・・(呆然)。

足利直義 ・・・よし、わかった。とにかく、事がうまく運ぶように、やってみろ。

上杉重能 はい。

さっそく重能は、染色工に命じて薄墨色の紙を作らせ、書の名人を探し出して、朝廷の書記担当官そっくりの筆跡でもって、天皇命令書を書かせた。その文面は:

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足利尊氏ならびに直義以下の一類の者らは、武威に誇り、朝廷をないがしろにした。

よって、その者らに、征伐を加うることとする。

その者ら、たとえ出家隠遁の身となったとしても、その刑罰を、決して緩めるべからず。

いずこに隠れ潜もうとも、日本国中くまなく探索し、その在所を突き止めて捕縛の後、そく、死刑に処すべし。

この足利討伐戦において手柄をたてた者には、厚く恩賞を与えるものとする。

以上、陛下よりの御命令を、ここに記すものなり。

建武2年11月23日 右中弁光守(うちゅうべんみつもり)

XX一族中
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上記中の最後にある宛名の所だけを、「武田一族中」あるいは「小笠原一族中」というように変えながら、このような同内容の命令書を10数通、偽造した。

直義は、この偽造・天皇命令書を持って建長寺へ向かい、尊氏に対面した。涙を押さえながらいわく、

足利直義 わが足利家に対する陛下からのおとがめ、それは、新田義貞のせいです。彼がいろいろと、たきつけたんです。それですぐに、彼に追討軍の指揮がまかされた、というわけですよ。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 足利家に所属する者は、たとえ出家しようと降伏して出てこようと、残らず探し出して処刑せよ、という事に、朝廷では決したようですよ。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 天皇陛下のお考えも、おそらくそれと同様でしょう。もう我々には、どこにも逃げ場が無くなってしまいました。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 先日の矢作と手超の合戦の時にね、敵側の戦死者が膚の守りに入れていた天皇命令書、これですよ。見て下さい。(偽造の命令書を、尊氏に渡す)

足利尊氏 ・・・(命令書を読む)。

足利直義 こんな状況になってしまってるんですよ、もうどうにも、遁れようがありません。

足利尊氏 ・・・。

足利直義 兄上、どうかお願いです! 出家を思いとどまって、足利家に連なるみんなの命を、救ってやってください! このまま行ったんじゃ、わが足利一族、全滅するしかないですよ!

天皇命令書を読んだ尊氏は、これが偽造されたものであるとは、全く思いも寄らなかった。

足利尊氏 足利の一族が生きるか死ぬか、今まさに、その瀬戸際にいるんだな、我々は・・・。

足利直義 ・・・(かたずをのむ)。

足利尊氏 あぁ・・・こうなったら、しょうがない、私も、みなと共に戦いの場に臨むとしよう! 義貞と死を共にしよう!

足利直義 (歓喜)兄上!

尊氏はたちまち、僧衣を脱ぎ捨てて、錦の鎧直垂を着込んだ。

その後、足利サイドの武士たちが、「一束切り」と称して髻を短く切ったのは、尊氏のこの髪型を、世間の目からごまかそうとしての事であった。(注2)

「もうだめだ」と思って新田サイドへ投降していた有力武士たち、あるいは、右往左往して逃げ回っていた武士たちも、この「尊氏立つ」の知らせを聞き、にわかに士気を回復、またまた、足利陣営に参加してきた。かくして、たった1日ほどの間に、足利サイドの兵力は、30万騎にまで膨張した。

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(訳者注2)太平記には、これに関する詳細な説明がない。「尊氏のあの髪型を見てみろ、おじけづいて、出家一歩手前のとこまで行ってたから、あんなふうになってるんだぞ。」と、人々に嘲笑されないように、みなそろって、尊氏と同様の髪型になった上で、「この髪型は「一束切」といってな、今最新流行のヘアースタイルなんだぞ」という事にした、というストーリーになっているのであろう。
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