太平記 現代語訳 39-6 高まる斯波高経への批判の声
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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そもそも、足利幕府の管領(かんれい:注1)職に就任できる人は、足利家親族中でも、とりわけ有力な家系のみに限定されていた。ゆえに、それになったからといって、そうそう、誰からも嫉まれるようなものでもない。
また、斯波高経(しばたかつね)は、鎌倉幕府・執権(しっけん)(これもまた、管領というべき地位である)の北条(ほうじょう)氏が未だ勢威を保っていた時代に、実際に生きてきた人であったから、礼儀も法度(はっと)もさすがに、現代の人間のような、ぶざまなものでもない。(注2)
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(訳者注1)この頃より、それまでの呼称・「執事」が、「管領」に変わったらしい。
(訳者注2)斯波高経は、「事実上の管領」というべきであろう。名目上は、息子の義将が管領であったから。
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「斯波高経こそは、足利政権の柱石として、立派な政治を行ってくれる人であろう」との、期待をかけていた人も多かった。
なのに、その期待を裏切るような事ばかり、しでかしてしまい、ついには、身をも失ってしまうに至ったのも、ただただ、春日大明神(かすがだいみょうじん)の神慮(しんりょ)という他、ないであろう。
「諸人の期待に反する事」を、具体的に列挙してみるならば:
まずは、全国の地頭(ぢとう)・御家人(ごけにん)の領地に対し毎年課税されている幕府納入税(注3)の取り扱いである。近年、その税率は慣例的に、2%に規定されてきた。ところが高経は、それを5%にアップした。
「こんなムチャな話、未だかつて、聞いた事ねぇ!」と、みな、憤懣やるかたなしである。
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(訳者注3)原文では「武家役」。地頭・御家人は、自らの領地からの取り分中の何%かを、幕府に対して納めなければならなかった。
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次なるは、将軍・足利義詮(あしかがよしあきら)が、三条坊門万里小路(さんじょうぼうもんまでのこうじ)に館を新築した際の事。
有力武士に対して、建物1個の建設が義務づけられた。
赤松則祐(あかまつのりすけ)も、その義務を果たさなければならなかったのだが、あいにく工事が遅延し、引き渡し納期にわずかに遅れてしまった。
すると、「法を犯す咎(とが)有り」とされ、新たに恩賞として得た大荘園1か所を、幕府に没収されてしまった。
則祐が、これを根に持たないはずがない。
さらには、佐々木道誉(ささきどうよ)の憤りである。
鴨川(かもがわ)に五条橋(ごじょうばし)を架橋しようという事になり、佐々木道誉が、その工事の責任者になった。
道誉は、京都中の家々から架橋・臨時税を取りたてながら、この工事を進めようとしたが、なかなかの大工事の為、進捗が多少遅れぎみであった。
これを督促せんがため、高経は独力で、民を煩わす事もなく、数日の中に、五条橋架橋工事を完璧に終わらせてしまった。(注4)
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(訳者注4)原文では、「事大営なれば少し延引しけるを励さんとて、道朝他の力をも不假、民の煩をも不成、厳密に五條の橋を数日の間にぞ渡にける」。
架橋工事を完成させてしまったのでは、「励まし」にはならないのでは、と思うのだが。
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道誉は、面目まるつぶれ、「何とかして、このお返しをしてやろう!」と、てぐすね引いて、待っていた。
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将軍邸の庭にも紅紫(こうし)の色とりどりに花が咲きはじめ、まことに興の乗る季節が、やってきた。
斯波高経は、様々の酒肴を用意し、京都朝年号・貞治(じょうじ)5年(1366)3月4日、「将軍御所の桜の花の下にて、盛大なる遊宴を開催!」という事にした。
佐々木道誉に対しては、特別な招待が行われた。
使者 「ぜひとも、この宴に、おこし下さい」と、主が申しております。
佐々木道誉 あぁ、いやいや、そこまで言っていただくとは、もったいないやら申し訳ないやら・・・はいはい、道誉、間違いなく、出席させていただきますよ、はいはい。
使者 なにとぞ、よろしくお願いいたします(礼)
佐々木道誉 はいはい!
使者 (退室)
佐々木道誉 桜かぁ・・・もうそんな季節になったんだなぁ・・・久しぶりに見たいなぁ、大原野(おはらの)の桜。(注5)
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(訳者注5)京都府向日市の勝持寺(通称、「花の寺」)の桜の事を言っている。
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道誉側近A あれからもう、だいぶになりますね、前に大原野へいらっしゃってから。
佐々木道誉 人間の思惑にかかわりなく、時は確実にめぐり、桜は花開くかぁ・・・よぉし、いっちょぉ行くぞ、大原野へ。
道誉側近B では、さっそくこれから、準備に取り掛かりましょう。
道誉側近A で、日程は?
佐々木道誉 3月4日がいいな!
道誉側近B 3月4日? それじゃ、バッティングしちゃいますよぉ、さっきの件と。
佐々木道誉 「さっきの件」? それ、いったいなんだぁ?
道誉側近B えぇ? いや、あのぉ・・・さっき、将軍御所での宴の、招待が来てたじゃぁないですかぁ。
佐々木道誉 えぇ? 招待? それって、いったい、なんの話しぃ?
道誉側近B 今から5分前の話しですよぉ・・・ほら、「3月4日、将軍御所の桜の花の下にてウンヌン」って・・・。
佐々木道誉 そんな話、わしゃぁ知らんなぁ。
道誉側近B ・・・(ケゲンそうな顔)
道誉側近A (ニヤニヤ)(側近Bの袖を引っ張る)
佐々木道誉 京都中の、ありとあらゆるジャンルの芸達者ども、一人残らずかき集め、大原野に連れていこう!
道誉側近A (扇を開く)
扇 パサッ!
道誉側近A (舞いながら)
ささぁ ささぁ お立ち会い お立ち会いぃー
桜の花のぉ 木の下にぃ
設けられたる 大宴会場ぉ
美麗尽くしたる 席整えてぇ
世にも類(たぐい)無き 遊びの数々(かずかず)ぅ
ささぁ ささぁ お立ち会い お立ち会いぃー
佐々木道誉 (拍手)ウワハハハ・・・。
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そして、問題の3月4日となった。
佐々木道誉は、軽やかな毛皮をまとい、肥えた馬に乗る高貴な家の人々を伴って、大原野の小塩山勝持寺(こしおやましょうじじ)に赴いた。
山麓に車を止め、そこから先は、青々とした蔦葛(つたかずら)を手で握り、山を登っていく。
彼らは黙々と、曲がりくねった小道を登っていく。静寂の中、聞こえるは、鳥の鳴き声と人々の荒い息の音ばかり。
やがて、眼前に、小さな寺院が見えてきた。
佐々木道誉 あぁ・・・(溜息)・・・寺が、花に埋もれている・・・まさに、花の寺・・・。
門を潜ったすぐ前には、渓谷のせせらぎがあった。
湾曲して流れる川を渡ると、その先には、曲がりくねった道が続き、橋の板は危うげに食い違っている。
寺の高欄は金襴で包まれ、ギボウシは銀箔で覆われている。
橋板の上には、中国渡来の毛氈(もうせん)、中国呉地方産の綾(あや)、蜀(しょく)の錦江(きんこう)の水でさらして織られた錦など、色とりどりの布が敷き並べられていて、その上に、桜の花が落ちてくる。
佐々木道誉 おぉ・・・まるで、朝日の至らぬ谷の奥深くに懸けられた橋の板1枚の上に、雪が残っているかのような・・・(橋を渡っていく)
道誉側近A (道誉の後に続いて橋を渡りながら)
踏む雪の この冷たさ 足にシンシン
踏む花の この香(こうば)しさ 履(くつ)にファーファー
佐々木道誉 ハハハハハ・・・。
心地よい風に吹かれながら、さらに石橋を渡ったその先には、既に、茶会の準備が整っていた。
石のかなえの上に茶釜がすえられ、その中には、竹のかけひで引いてきた泉の名水が満たされていた。
佐々木道誉 釜の湯の沸騰するその音は あたかも松籟(しょうらい)のごとく響き
道誉側近A 芳甘(ほうかん)なる大気の中に 今一服の茶を点ぜんとす
佐々木道誉 人間、この一碗を干さば 直ちに、天人(てんじん)仙人(せんにん)に転生(てんしょう)すべし
屈曲する藤の枝々に平江帯(ひんごうたい)を掛け、螭頭(ちとう)の香炉(注6)に鶏舌(けいぜつ)の沈水(じんすい)(注7)を薫じる。暖かい春風の中に芳香ただよい、まるで、栴檀(せんだん)の林中に入ったかのようである。
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(訳者注6)竜の形をした香炉。
(訳者注7)鶏舌香。
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はるか彼方に視線を合わせ、周囲の山々を見渡してみれば、けむる春霞の中に、山河は入り混じり、峙(そばだ)っている。
佐々木道誉 はぁー・・・なんて、すばらしい眺めなんだろう・・・全世界の画家たちが丹精こめ、一心不乱に描いた風景画、その全てが、ここに集まってきたってカンジだなぁ。
道誉側近A 足を寸歩(すんぽ)に移さずして、四海五湖(しかいごこ)の風景、たちどころに得る、ってとこですか。
一服の後、彼らは、本堂に足を運んだ。
佐々木道誉 おおお・・・あの桜の木、みごとだねぇ。
道誉側近A 一歩三嘆(さんたん)して遥かに登れば 本堂の庭に十囲の花木4本あり。
佐々木道誉 ふふん、こんどは、数字合わせで来たねぇ。(笑顔)
道誉側近A ・・・(笑顔)
その根本に、それぞれ、1丈余長の真鍮(しんちゅう)製の花瓶があり、1対の花が生けられた間には、2抱えの大きさの香炉2個が、机の上に置かれている。
道誉側近A 一斤(いっきん)の名香を一度(いちど)にたき上げたれば 香風(こうふう)四方に散じて 人みな、浮香世界(ふこうせかい)の中にあるがごとし。
佐々木道誉 またまたぁ・・・その「浮香世界」ってぇのは、「衆香世界」のモジリかい、あの「香積如来」がおられるっていう?(笑顔)
道誉側近A ・・・(笑顔)
桜の木陰に幔幕(まんまく)を引き、椅子を並べ、百味の珍膳(ちんぜん)を整え、百服の本非茶(ほんぴちゃ:注8)がセットされ、賞品(注9)が山のごとく積み上げられている。
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(訳者注8)「本」とは、栂尾産の茶。「非」とは、それ以外の産地の茶。
(訳者注9)「茶を飲んでその産地を当てる遊び」の賞品。
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猿楽ダンサー(猿楽優士)がひとたび回って、鳳凰(ほうおう)の翼を翻(ひるがえ)し、きれいどころ(白拍子)たちが、春の鶯(うぐいす)のごとくに歌い出す。一曲終わる度に、観客席から舞台めがけて、ギャラ(報酬)として、大口袴や小袖が投げ込まれる。
興たけなわに酔いに和し、いよいよ、宴会もお開き。
帰路に月無ければ、松明(たいまつ)天を輝かす。
きらびやかに飾った車の車軸は轟(とどろ)き、小作りの馬が、くつばみを鳴らす。馳せ散りオメキ叫びたるその様はただただ、身中三虫(しんちゅうさんちゅう)の深夜の行進、百鬼夜行(ひゃっきやこう)のちまたを過ぎ行くがごとくである。昔の人が、「花開き花落つる二十日、一城の人みな狂ぜるがごとし」と、牡丹妖艶(ぼたんようえん)の色を表現した、まことにそれさながらの光景である。
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この、「佐々木道誉の大原野花見」は、あっという間に、京都中のうわさのタネとなり、斯波高経の耳にも入っていった。
斯波高経 (怒り)(内心)クォォ、道誉め! わしが主催した将軍家の花見の宴、つまらん遊びと、見下しおったなぁ!
斯波高経 (内心)だけど、この怒り、じっと、こらえるしかない・・・道誉のあの行為、幕府で問題とされるべきような性質のものではないから。
斯波高経 (内心)道誉め、なんでもいいから、法を犯すような事、早くしでかせ。その時こそは見てろよ、バッシィーンとやってやるんだから!
高経の期待にたがわず、道誉は、例の5%の幕府納入税を、2年間、滞納した。
斯波高経 (内心)やった! こりゃぁ、絶好の罪科だ。
斯波高経は、佐々木道誉が近年給わってきた摂津国・守護職を別人に替え、さらに、摂津国中にあった道誉の領地・多田庄(ただしょう:兵庫県・川西市)を没収し、幕府政所(まんどころ)の直轄領とした。
道誉はもう、アタマにきてしまった。
佐々木道誉 (内心)なんとかして、斯波高経をシマツしてしまわにゃなぁ!
道誉はさっそく、有力武士たち相手に、工作を開始。
まずは、佐々木氏頼(ささきうじより)。彼は、道誉にとっては本家に当たる血筋にあったので、道誉の誘いにすぐに乗ってきた。
次は、赤松則祐。彼は、道誉にとっては娘婿、その誘いを断るわけが無い。
その他の有力武士たちも大半は、以前から道誉にこびへつらっていたから、彼の「世論形成工作」は、すんなりと成功、みな口々に、事に触れ折に触れ、「斯波殿は、管領職には不適任であります」と、将軍・義詮に対して讒言(ざんげん)し続けた。
孔子(こうし)いわく、
「君主たるもの、衆人が憎む者の真の姿を、よくよく観察せよ、衆人が好む者の真の姿を、よくよく観察せよ。衆人の意見に流されていたのでは、君主はつとまらない。」
(原文)
衆悪之必察焉
衆好之必察焉
また、菅子にも次のようにある、
「巧みに人気取りをする者に、衆人は惹かれ、その周囲に集まっていくものである」
「世間の思惑におもねる事なく、ひたすら、わが道を行く」というような生き方をしている人が、運悪く、衆人から憎まれるようになってしまう、というのはよくある事だ。だから、世間の毀誉褒貶(きよほうへん)に対しては、よくよく慎重に、評価・判断を下していかねばならない。
しかし、将軍・義詮は、諸人の讒言のその真偽をよく糺(ただ)す事もなく処断を下してしまい、斯波高経は咎無くして、たちまち討伐される事と、なってしまった。
義詮は、極秘裏に佐々木氏頼に命令を下し、近江国中の武士を招集させた。
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「斯波高経(しばたかつね)を討伐の為、佐々木氏頼(ささきうじより)の下に近江国(おうみこく:滋賀県)勢、集結中」との情報を伝え聞いた高経は、京都朝年号・貞治(じょうじ)5年(1366)8月4日夜、将軍・義詮の御前へ参じて訴えた。
斯波高経 「あなたに対して、将軍様が疑惑の念をいだいておられるよ」って、内々に教えてくれた人がおりました。でも、不忠不義の事をした覚えなど全くないもんですから、「それはないよ、なんかの間違いだろう」って、思っておったのです。
斯波高経 ところが・・・「昨日、近江国の勢力が戦の用意整え、近江を進発、京都へ向かいつつある」というじゃないですか・・・あぁ、あの風説は、ほんとだったんだなぁって・・・。
足利義詮 ・・・。
斯波高経 この高経、無才庸愚(むさいようぐ)の身をもって、大任重責(たいにんじゅうせき)の職を汚(けが)してるわけですからね、そりゃぁ、私の悪口を言う人間の数、10や20ではきかないでしょうよ・・・でもねぇ・・・。
足利義詮 ・・・。
斯波高経 そういう讒言をする者らの、その言ってる事の真偽の糾明もされないままに、私に対して疑惑の念を抱かれるとは・・・まったくもう、残念な事ですわぁ。
足利義詮 ・・・。
斯波高経 わざわざ、方々の国々から軍勢を招集される必要なんか、ありませんでしょうに・・・側近の誰か一人に、「高経を殺せ」って命令されたら、それで、かたづく事じゃぁないですかぁ・・・忠諫(ちゅうかん)の下に死を賜り、この衰老(すいろう)の身の後に屍(しかばね)を残す・・・何もかも、いっぺんに、かたがついてしまう事なんですよ・・・。(涙)
足利義詮 ・・・。
恨みをたたえた面に涙を拭って訴える高経の言葉に、義詮も理に服したるようす、何の言葉を返す事もできない。
両者はそのまま、黙然と座し続けた。
斯波高経 ・・・。(涙)
足利義詮 ・・・。(涙)
やがて、高経は退出しようとした。その時、
足利義詮 高経・・・(手招き)。
斯波高経 ははっ(義詮に接近)
足利義詮 (ヒソヒソ声で)おまえの言い分、よく分かるよ・・・そうさ、まったく、おまえの言う通りさ・・・でもなぁ、今の世の中、私の思う通りに行かん事も、いろいろあるんだよぉ・・・ハァー(溜息)
斯波高経 ・・・。
足利義詮 (ヒソヒソ声で)なぁ、しばらくの間な、越前(えちぜん:福井県東部)の方へ引きこもってな、おとなしくしててくれよ。
斯波高経 ・・・。
足利義詮 (ヒソヒソ声で)そのうち、彼らの気も、おさまるだろうからさぁ・・・時間がたてば・・・な? そうだろ?
斯波高経 ・・・。
足利義詮 (ヒソヒソ声で)なぁ・・・高経・・・。
斯波高経 ・・・わかりました、おおせのままに致します・・・。
足利義詮 ・・・ハァー(溜息)
斯波高経 ・・・(退出)。
やがて、兼ねてのてはず通りに、佐々木氏頼が完全武装の武士800余を率いて将軍邸へ馳せ参り、四方の門をかためた。
その後、京都中、騒然となってきた。
義詮側へ馳せ参じようとする武士もあり、高経側へ馳せる人もいる。双方の館の間隔はわずかに半町ほどであるから、誰が義詮サイドで、誰が高経サイドなのか、さっぱり分からない。
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斯波高経 (内心)将軍様に、あぁは言ったけど・・・越前へ行く? いいや、ここから一歩も動かん! 攻めてきたら、一矢放った後、腹を切るまでのことだ!
このように、いったんは覚悟かためたが、義詮のもとからは何度も何度も、三宝院覚斉僧正(さんぼういんかくせいそうじょう)が使者としてやってくる。義詮側はひたすら、「なだめの一手」。
斯波高経 (内心)将軍様が、そこまでおっしゃるのならば・・・いたしかたない、越前へ行くか・・・。
斯波高経 (内心)かと言ってだな、ただオメオメと都を出ていくってな態(てい)では、まずいだろう、追撃かけられるかもしれんからな。
8月8日夜半、二宮信濃守(にのみやしなののかみ)率いる500余騎が、高倉面(たかくらおもて)の門から将軍邸に押し寄せる風を見せながら、トキの声を上げた。
義詮サイドに馳せ参じていた大軍勢は、邸内へ入ろうとする者あり、外へ出ようする者ありで、大混乱になってしまった。鎧の袖や兜を奪われ、太刀、長刀を取られ、馬や鎧を失う者は多数、「未だ戦わざる前に、禍(わざわい)、門の内から出現」の様相を呈している。
このどさくさに紛れて、斯波高経は300余騎を率い、長坂(ながさか)(鷹峯付近)経由ルートで越前へ向け、京都を脱出した。
高経が1里ほど進んだと思われる頃を見はからい、二宮信濃守もまた、その後を追って、京都を離れた。
義詮サイドの有力メンバーらは、相手の疲れに乗じてしとめてしまおうと、二宮を追撃した。
二宮信濃守は、いささかもひるんだ様子を見せず、馬に道草を食わせながら長坂峠の上から、義詮サイドの人々を睨んで嘲笑、
二宮信濃守 おぉい、そこのぉ! ちょっと、しつこいんだよなぁ・・・とことん、ついてきやがってぇ・・・獲物くわえたライオンの後おっかけるハイエナみたいになぁ!
二宮信濃守 あのなぁ、このさい言っとくけどなぁ、京都で戦しなかったのは、なにも、おまえらを恐れての事じゃぁないんだよぉ。あれはただ、将軍様に遠慮したまでの事さ。
二宮信濃守 もう今は、都を離れた、夜も明けた! 敵も味方もお互い、よく知りあった者どうし、今この時をおいて、おれが勇士なのか、それともただの臆病者なのか、はっきり示すチャンスは、またと無し。
二宮信濃守 馬の腹帯、伸びてしまわんうちに、さっさとかかってこいやぁ! おれたちの首を引出物(ひきでもの)に進呈するか、おまえらの首を旅の餞別(はなむけ)に頂くか、おれの運命もおまえらの運命も、二つに一つ、さぁ、どっちに転がるか、ためしてみようじゃぁないかぁ! さぁさぁ、とっとと、かかってこぉい!
高らかに叫び、馬上で鎧の上帯を締め直し、馬頭を東に向けてひかえている。その勇気はまさに、節(せつ)に中(あた)り、死を軽んずる義にあふれ、眼前に恐るべき敵など皆無の体。
義詮サイド数万人は、「もはやここまで」と、長坂の山麓で追撃をあきらめ、引き上げていった。
その後、二宮信濃守は、途中で彼を待っていた斯波高経に合流。やがて、斯波全軍は、越前に到着した。
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斯波高経は直ちに、杣山城(そまやまじょう:福井県・南条郡・南越前町)にたてこもり、子息・義将(よしまさ)を、栗屋城(くりやじょう:福井県・丹生郡・越前町)にこもらせた。
斯波高経 さてさて、北陸地方全体の制圧に向けて、作戦会議を開くとするか。
これを聞いた足利義詮は、
足利義詮 ハァー・・・(溜息)・・・じゃぁ、討伐軍を送れぇ。
というわけで、さっそく討伐軍が編成された。主要メンバーは以下の通りである。
畠山義深(はたけやまよしふか:注10)、山名氏冬(やまなうじふゆ:注11)、佐々木高秀(ささきたかひで)、土岐左馬助(ときさまのすけ)、佐々木氏頼(ささきうじより)、その弟・佐々木崇誉(そうよ)、赤松光範(あかまつみつのり)、赤松貞範(あかまつさだのり)。
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(訳者注10)38-5に登場。義深はこの時点で既に幕府から赦免され、重要メンバーとしての扱いを受けているようである。
(訳者注11)氏冬は山名時氏の息子である。39-2 に、山名時氏の幕府への帰参が記載されているので、その息子・氏冬が幕府軍リーダーとして出陣するのは、順当な成り行きと言えようか。
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彼らが率いる、能登(のと:石川県北部)、加賀(かが:石川県南部)、若狭(わかさ:福井県西部)、越前(えちぜん:福井県東部)、美濃(みの:岐阜県南部)、近江(おうみ:滋賀県)の勢力・総勢7,000余騎は、その年の10月から、前述の斯波側の2城を包囲し、日夜朝暮に攻め続けた。
しかし、城が落ちる気配は、全く見えない。
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このような中に、翌年7月、斯波高経は、突然、病に犯され、死去してしまった。
子息・義将は様々に、将軍・義詮に対して赦免の嘆願を行い、義詮の方もそれを受け入れた。
同年9月、斯波義将は、「赦免&領地安堵の将軍命令書(注12)」を賜り、京都へ召し返された。
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(訳者注12)原文では、「宥免安堵(ゆうめんあんど)の御教書(みぎょうしょ)」。
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それから間もなく、義将は、越中国(えっちゅうこく:富山県)討伐の任を義詮より命じられ、桃井直常(もものいなおつね)を死に至らしめたので、その功績により、越中国守護職の地位を手に入れた。
これより以降、北陸地方一帯には、平和な日々が戻ってきた。
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この一連の経過を振り返って見るに、斯波高経をしてこのような結末に至らしめた事の発端は、ただただ、諸人から讒言をされた事にあった。その結果、彼は、幕府管領という高い権力の座から、転落してしまったのである。
古代中国・戦国時代、楚(そ)の屈原(くつげん)は、汨羅(べきら)の岸辺にさまよいながら、世を憤り、嘆いていわく、
屈原 世間の人々はみな、酔うておる、醒めているのは、我のみじゃ。
これを聞いた漁夫が、笑っていわく、
漁夫 ほほぉ、世間はみな、酔うておるかの・・・ならば、なぜ、その酒粕を食らい、その汁をすすらんのじゃ?
漁夫はそのように述べ、棹さして流れを行ったという。
まさにこの故事、現代のこの世相を想起させてしまうものが、あるではないか。
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