太平記 現代語訳 15-8 後醍醐天皇、京都へ帰還
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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1月末日の足利(あしかが)勢の京都からの逃亡の後、2月2日、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)を出て京都へ帰還し、花山院(かさんいん)に入ってそこを皇居にした。
同月8日、新田義貞(にったよしさだ)が、豊島(てしま)、打出(うちで)の戦に大勝して足利軍を万里の波上に漂わせ、罪を許された降伏者たちを引き連れて、京都へ凱旋してきた。
義貞の姿は、まさに輝かんばかりであった。
降伏者1万余騎は全員、笠標(かさじるし)の紋を書き直して身に付けていたのだが、新たに黒く塗った部分と前から黒かった部分との濃淡の差があまりにも目立ちすぎた。翌日さっそく、五条大路の辻に、一首の歌を書いた札が立った。
二筋(ふたすじ)の 中の白みを 塗り隠し 新田新田(にたにた)しげな 笠符(かさじるし)哉(かな)(原文のまま:注1)
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(訳者注1)足利家の紋は[二引両](二本の横線を丸で囲った図)であり、新田家の紋は[中黒](太い一本横線を丸で囲った図)である。[二引両]の二本線の間を黒く塗りつぶすと、[中黒]に変えることができる。朝廷サイドに投降した人々は、自らの笠標の[二引両マーク](足利サイドに所属していたことを表す)の中を黒く塗りつぶして[中黒マーク]に変えて、今は、新田サイドに所属することになっていることを表した、ということであろう。
「にたにたしげ」で「新田」と「似た」とをかけている。
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京都市中と遠隔の地(豊島、打出)での戦の結果に天皇は大いに満足、すぐに臨時の官吏任命が行われ、新田義貞は左近衛中将(さこんえのちゅうじょう)に、脇屋義助は右衛門佐(うえもんのすけ)に、任じられた。
天下の吉凶は必ずしも、年号によって左右されることではないとはいえ、現在の[建武(けんむ)]の年号は、朝廷側にとって不吉である、ということになり、2月25日に年号が、[延元(えんげん)]に改められた。
公家A いやぁ、よろしぉましたなぁ。
公家B ほんまになぁ・・・ついこないだまでは、今日明日にでも朝廷が、逆臣・足利のために倒されてしまうかと、危ぶまれるような状態でしたわ。
公家C そやけど、間もなく事態は正常化、天下は再び泰平となりました。
公家D これもやっぱし、陛下の聖なる徳が、天地のみこころに叶っているからでしょう。
公家E これから先、世の中がどないな状態になったとしても、どこの誰が、朝廷を傾ける事なんかできましょうかいな。天皇陛下中心の体制、これは永遠のものですわ。
このように、群臣の心中からはいつしか危機感も薄れ、徐々に、慎みを忘れていく・・・。あぁ、人間の心とは、なんと愚かなものなのであろうか。
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