太平記 現代語訳 4-4 俊明極が語った事
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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さる元享(げんきょう)元年(注1)の春、中国・元(げん)から、俊明極(しゅんみんき)という智徳高い禅師が、日本にやってきた。
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(訳者注1)[日本古典文学大系34 太平記一 後藤丹治 釜田喜三郎 校注 岩波書店]の補注では、俊明極の来日は、元徳元年である、としている。[新編 日本古典文学全集54 太平記1 長谷川端 校注・訳 小学館]の注では、「元徳元年の冬ごろ入京、二年の春に後醍醐天皇と相看したと思われる。」としている。
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天皇が直接、外国の僧に面会されることは、過去には無かった。しかし、後醍醐天皇は禅宗に傾倒しておられ、多くの僧侶に接してその話を聞くのにとても熱心であったので、今回も、この禅師の講義を受けるために、さっそく、御所への招聘(しょうへい)が行われた。
中国からの禅師を迎えるというからには、その儀式があまりに簡素に過ぎては、国家の恥にもなるであろう、ということで、大臣、公卿そろって衣服を整え、弁官・学士もそろって、俊明極の到着を待った。
その日の夜半、燈をかざしながら、俊明極は御所へやってきた。
天皇が紫宸殿(ししんでん)にお出ましになり、玉座に着座。
俊明極は、三拝礼を行い、香を薫じた後、天皇のご健勝を祝した。
その後、いよいよ問答が始まった。
後醍醐天皇 貴僧は、山に橋をかけ、海を渡り、意気揚々とわが国にやって来られた。さてさて、貴僧は、いったいどないな方法でもって、人々を救済されるおつもりかな?
俊明極 仏の法の中、最も重要なるところをもってして、人々を救済せんと・・・。
(原文)佛法緊要の處を以て度生せん。
後醍醐天皇 まさに、それは如何(いかん)?
(原文)正當恁麼時奈何。
俊明極 天の上には星あり、すべて北極星に向かって礼拝す。地上には川あり、東海に向かいて、流れぬ水は無し。
(原文)天上に星有り、皆北に拱(きょう)す。人間水として東に朝(ちょう)せ不(ずということ)無し。
後醍醐天皇 ウーン、なるほど!
というような具合で講義は進み(注2)、やがて終了、禅師は礼をして退出。
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(訳者注2)この問答の真意は、禅宗を深く修した人にしか理解できないものなのかもしれない。訳者には理解不可能だ。
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天皇は翌日、洞院実世(とういんさねよ)を俊明極のもとにつかわされ、「国家禅師の号」を彼に与えられた。
その際に、俊明極は、実世にこう語ったのである。
俊明極 陛下には、「頂点まで登りつめたる後、下降する龍」の気運あり。されど、「帝の位に二度つく」の御相あり。
今や、後醍醐先帝は幕府によって拘束される身となられ、まさに俊明極の予言のごとく、「降龍」の体になっておられる・・・がしかし、
後醍醐先帝 (内心)あの俊明極が予言したんやからな、わしは、「帝の位に二度つく」んや、再び天皇位に復帰すること、絶対に間違いなし!
なので、「しばらくは、出家せず!」と、幕府よりの要請を断固、拒絶されたのである。
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