太平記 現代語訳 30-4 足利尊氏、関東へ向かう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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八相山(はっそうやま:滋賀県・長浜)の戦に勝利の後、足利尊氏(あしかがたかうじ)はすぐに京都へ戻ったが、10月13日、朝廷(注1)より重ねて、「足利直義(あしかがただよし)を誅罰(ちゅうばつ)せよ」との命令書が来た。席の暖まるひまもなく、翌日、尊氏は京都を発ち、鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ向かった。

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(訳者注1)[園太暦](洞院公賢の日記)によれば、10月24日、尊氏はなんと、吉野朝廷から(京都朝廷からではなく)、直義追討の綸旨を賜ったのだそうだ。当時、尊氏は吉野朝廷との和平工作を行っていたらしい。
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足利尊氏 (内心)京都にも兵力を残して置かねば・・・吉野朝廷に隙を狙われてはいかんからな・・・。

というわけで、尊氏は足利義詮(あしかがよしあきら)に京都の防備を委ねた。

やがて、尊氏は駿河国(するがこく:静岡県中部)へ到着。しかし、遠江(とおとうみ:静岡県西部)より以東の関東地方や北陸地方の武士たちのほとんどは、すでに直義陣営側に馳せ参じてしまっており、尊氏の下へ集まってくる者はわずかしかいない。

足利尊氏 たったこれだけの兵力ではなぁ・・・今すぐ鎌倉へ攻め寄せるってなわけにもいかんだろう・・・うーん・・・。

尊氏軍リーダー一同 ・・・。

足利尊氏 よし、こうしよう。ここしばらくは要害にたてこもり、じっくり兵を集めるんだ。

11月末日、尊氏は、駿河国の薩埵峠(さったとうげ:静岡県・静岡市:注2)に登り、東北方向の斜面に陣を張った。彼に従うメンバーは、仁木頼章(にっきよりあきら)、その弟・仁木義長(よしなが)、畠山国清(はたけやまきにくよ)を筆頭に畠山兄弟4人、今川範国(いまがわのりくに)、その子息・今川了俊(りょうしゅん)、武田信武(たけだのぶたけ)、千葉氏胤(ちばうじたね)、長井(ながい)兄弟、二階堂行珍(にかいどうぎょうちん)、二階堂山城判官(にかいどうやましろはんがん)ら。その兵力は3,000余騎ほどでしかない。

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(訳者注2)原文では「薩埵山」とあるが、「薩埵峠」としておいた。ここは、東海道新幹線の静岡駅と新富士駅との間の地点付近、駿河湾と山に挟まれた狭い地域に、鉄道と道路が密集して走り、という場所である。
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「将軍、薩埵峠に陣を取り、ひたすら、宇都宮(うつのみや)軍の来援を待つ」との情報に、足利直義は、

足利直義 宇都宮軍が兄上と合流してしまったら、こちらの形勢はがぜん不利になる。先手を打たねばな。

直義は、桃井直常(もものいなおつね)に、長尾左衛門尉(ながおさえもんのじょう)他、北陸道7か国の軍勢1万余騎を与え、宇都宮軍の進軍を阻止すべく、上野国(こうづけこく:群馬県)へ向かわせた。

同日、直義も鎌倉を発ち、薩埵峠へ向かった。

足利直義軍は、2方面に分かれて進軍。

大手方面軍の大将・上杉憲顕(うえすぎのりあき)は、20万余騎を率いて、由比(ゆい:静岡市)、蒲原(かんばら:静岡市)を目指した。

からめ手方面軍の大将・石塔義房(いしどうよしふさ)とその子息・石塔頼房(よりふさ)は、10万余騎を率いて、内房(うつぶさ:静岡県・富士宮市)経由で薩埵峠へ押し寄せた。

総大将・足利直義は、主要勢力10万余騎を従えて、伊豆国府(いずのこくふ:静岡県・三島市)で待機した。

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薩埵峠は、最大級の難所である。周囲三方は険阻にして谷は深く切れ込み、残る一方は海に直面、その崖は高く聳(そび)え立っている。まさに難攻不落の急所、たとえ何万人をもって攻めてみても、そこへ接近する事すら難しい。しかし、直義軍側は、あくまで強気である。

直義軍リーダーA なぁに、こっちは50万、なのにあっちは3,000、いいかい、たったの3,000だよ、3,000!

直義軍リーダーB しかもさぁ、遠路はるばる京都からの長旅ときたもんねぇ。馬も疲れてるだろよ、食料だって乏しいんじゃぁねぇのぉ。

直義軍リーダーC あそこにたてこもってみたところで、いってぇいつまで持ちこたえれるもんだかぁ。

直義軍リーダーD タハッ、哀れなもんさね。

直義軍リーダーE 敵サン、もう、おれたちの掌(てのひら)ん中入ったも同然だぁ。

というわけで、あえて攻撃を急がず、ただただ周囲を千重万重に取り巻くだけ、矢戦すら始めぬままに、じっと包囲を続けていく。

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ここで、舞台は関東へと変る。

薬師寺元可(やくしじげんか)の勧めにより、かねてより足利尊氏に心を通わせていた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は、自らの本拠地エリア内に潜伏していた、故・高師直(こうのもろなお)一族の三戸七郎(みへしちろう)に目をつけた。

宇都宮氏綱 なぁなぁ、どうだい、ヤツを司令官に任命してさ、薩埵峠へ援軍を送り込むってのは?

宇都宮家家臣F うーん、いいんじゃぁないでしょうかねぇ。

宇都宮家家臣G いけますよ、それ。

その情報をキャッチした上野国住人・大胡(おおこ)と山上(やまがみ)の一族らは、おそらく他人に先を越されたくないと思ったのであろう、新田(にった)一族に所属の大島(おおしま)を大将に取りたてて500余騎の軍を編成し、「いざ、薩埵峠へ援軍!」と、笠懸原(かさがけのはら:群馬県・みどり市)へ繰り出した。

長尾孫六(ながおまごろく)と長尾平三(へいぞう)は、上野国警護の為に、かねてより300余騎を率いて世良田(せらだ:群馬県・太田市)に駐屯(ちゅうとん)していたが、「大胡&山上、出陣」の情報をキャッチするやいなや、笠懸原へ急行した。(注3)

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(訳者注3)長尾家は代々上杉家の家臣であったから、当然、直義側勢力である。故に、尊氏軍の応援を標榜する大胡&山上と戦う事になる。ここ以降の話は、宇都宮&薬師寺=尊氏側勢力、桃井&長尾=直義側勢力という構図をもってすれば、理解しやすいと思う。
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長尾軍は、相手に一矢射る時間も与えずに、そく一斉攻撃、大島を大将と仰ぐ500余騎は十方に懸け散らされて、全員、行くえ不明になってしまった。

これを聞いた宇都宮氏綱(うつのみやうじつな)は、

宇都宮氏綱 まったくもう、あのレンチュウ! 不用意なコトしでかしゃがってよぉ。

宇都宮氏綱 つまらん事で、敵を勢いづけちまったじゃねぇか! あーあ、ほんと、興ざめだよなぁ。

宇都宮家家臣一同 ・・・。

宇都宮氏綱 いやいや、こんな事でガックリきてちゃいけねぇや。みんな、元気出して行こうぜぃ!

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12月15日、宇都宮軍は、宇都宮(うつのみや:栃木県・宇都宮市)を発ち、薩埵峠へ急いだ。その軍を構成するメンバーは、以下の通りである。

氏家周綱(うじいえちかつな)、氏家下総守(しもふさのかみ)、氏家綱元(つなもと)、氏家備中守(びっちゅうのかみ)、氏家忠朝(ただとも)。

譜代家臣の清党(せいとう)からは、芳賀貞経(はがさだつね)、芳賀肥後守(ひごのかみ)。

譜代家臣の紀党(きとう:注4)からは、益子貞正(ましこさだまさ)。

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(訳者注4)宇都宮家の有力家臣団に「紀党」と「清党」の2グループがあった。彼らをあわせて「紀清両党」と呼ぶ。
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薬師寺元可、その弟・薬師寺義夏(よしなつ)、同じく薬師寺義春(よしはる)、薬師寺助義(すけよし)。

武蔵国(むさしこく)の住人・猪俣兵庫入道(いのまたひょうごのにゅうどう)、安保信濃守(あふしなののかみ)、岡部新左衛門入道(おかべしんざえもんにゅうどう)、その子息・岡部出羽守(でわのかみ)。

以上、総勢1,500騎。

16日正午、彼らは、下野国(しもつけこく:栃木県)の天命宿(てんみょうじゅく:栃木県・佐野市)にうって出た。

その日、佐野(さの)一族、佐貫(さぬき)一族ら500余騎がこれに加わってきて、宇都宮軍は勇気凛凛(ゆうきりんりん)。

その夜の作戦会議は、いやが応にも盛り上がった。

宇都宮氏綱 さぁー、行くぜ、行くぜぃ!

宇都宮軍リーダー一同 イェーイ!

宇都宮氏綱 明朝夜明けに出発だぁ! 桃井なんかにゃ目もくれず、全員そろって、一気に薩埵峠を目指そうじゃぁねぇか!

宇都宮軍リーダー一同 イェーイ! イェーイ! ピュー、ピュー!

宇都宮軍リーダーH あのぉ、大将・・・いったいどうしたの?

宇都宮軍リーダーI ・・・顔面蒼白だよ・・・。

三戸七郎 ・・・。

宇都宮軍リーダー一同 ・・・。

三戸七郎 (ガタガタガタガタ・・・震える)

宇都宮軍リーダー一同 ・・・。

三戸七郎 ウワッ、ウワッ(いきなり立ち上がる)・・・ウウッ、ウウッ・・・(腰の刀を抜く)・・・ウァァァ・・・(自害、倒れ伏す)。

宇都宮軍リーダー一同 ・・・(ゾォーーー)。

なんと、作戦会議のまっ最中に、今回の遠征軍大将に取りたてられた三戸七郎が、にわかに発狂し、自害して死んでしまったのである。

この異変を見て、「戦の門出だってのに、まぁ何ともエンギの悪い事だなぁ」と思ったのであろう、途中参加してきた武士たちは、一騎残らず去っていってしまった。

宇都宮軍リーダーH 結局、また元の、宇都宮を出てきた時のメンバーだけになっちまったよ。

宇都宮軍リーダーI 兵力わずか、700騎足らずかぁ。

宇都宮軍リーダー一同 (内心)こんなことじゃぁ、この先いったいどうなることか・・・(愕然)。

しばらく思案にふけっていた薬師寺元可が、口を開いた。

薬師寺元可 いやいや、こんな事、気にする必要、ジェーンジェン(全然)ないな。「吉凶はあざなえる索のごとし」ってな事、言うじゃん(注5)。氏綱殿、三戸七郎のこの突然の死、きっと宇都宮大明神の御心(みこころ)だと思いますよ。氏子のあなたが、この軍の総司令になれっての御心でしょう、きっと。

宇都宮氏綱 うーん・・・。

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(訳者注5)「人間万事、塞翁が馬」と同義のことわざ。人生の吉凶は絶えず入れ替わり、今は吉と思っていた事が、すぐに凶となり、凶と思っていた事が吉となったりする、という意味。吉と凶を二本の綱に、それをよりあわせて作られた索(縄)を人間の運命にたとえている。たしかに、垂直に垂らした索を下から上へと見ていくと、「吉」の綱が見えている部分の上には「凶」の綱が見えている部分が、さらにその上には、再び「吉」の綱が、というように循環構造となっている。
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薬師寺元可 さ、さ、こんなとこで、ぐずぐずしてる場合じゃないでしょ! 一刻も早く、薩埵峠、薩埵峠!

元可の言葉にみな気を取り直し、薩埵峠への進軍続行となった。

その後は、道中にいささかの滞りも無く、馬をひたすら走らせ続け、19日正午、利根川(とねがわ:注6)を渡って那和庄(なわしょう:群馬県・伊勢崎市)に到着した。

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(訳者注6)古代より、利根川の流路は何度も変わっている。
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宇都宮軍リーダーJ 殿! 軍の後方に、馬煙が!

宇都宮氏綱 うっ、いったいどこの連中だ?

宇都宮軍リーダーH 味方かな?

宇都宮軍リーダーI 違う、違う、あの旗見ろ! 桃井と長尾だよ。

まさに、桃井直常と長尾左衛門が1万余騎を率いて、宇都宮軍の後方に迫ってきたのであった。

宇都宮氏綱 よぉし、ここに陣を張って戦うぞ!

小川を前にして、広々とした野原の中に、宇都宮軍は布陣した。紀勢両党(きせいりょうとう)700余騎は、大手を受け持って北端に控え、氏家周綱は、200余騎を率いて中央に、薬師寺兄弟は、500余騎を率いてからめ手を受け持ち、南端にひかえた。

宇都宮 versus 桃井、双方にらみ合いのまま、1時間が経過。

やがて、桃井軍7,000余騎が、トキの声を上げ、宇都宮軍に対して攻撃開始。

長尾軍3,000余騎も、それに続いて、魚燐(ぎょりん)陣形をもって薬師寺軍に襲いかかる。

長尾孫六と長尾平三率いる500余騎は、全員馬から飛び降り、徒歩になって鎧の左の袖をさしかざし、太刀や長刀の切っ先そろえ、静々と小躍りしながら氏家軍へうってかかる。

だだっ広い平野のど真ん中、馬の足に懸る草木など一本もない所、双方あわせて1万2000余騎の武士たちは、東に開き、西に靡き、追いつ返しつ激戦1時間、長尾孫六率いる徒歩の武士500余人は、氏家軍に縦横に懸け悩まされ、一人残らず討たれてしまった。

これを見て、桃井も長尾も、「とてもかなわない」と思ったのであろう、十方に分かれて退散してしまった。

戦闘終了後4、5か月もの間、戦場となった2、3里四方一帯で、草は、なまぐさい匂いを発し続けた。人間の血液が原野に深く染み込み、戦死者の死骸はいたる所にうずたかく積もっていた。

この那和の戦と日を同じくして、兵を募っていた武蔵国守護代・吉江中務(よしえなかつかさ)が、津山弾左衛門(つやまだんざえもん)と野興(のいよ)党に攻撃され、あっという間に討たれてしまった。

かくして、武蔵と上野両国には、宇都宮に敵対する者は皆無となった。武士たちは、続々と宇都宮の下に馳せ参じ、その総兵力は3万余騎にまで膨張した。

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ここで、舞台は再び、薩埵峠へ。

直義軍リーダーA やべぇぞ・・・「宇都宮軍、関東各地で連戦連勝、まもなく、薩埵峠の後詰めにやってくる」ってな情報が、入ってきてんだよ。

直義軍リーダーB エェッ!

直義軍リーダー一同 宇都宮がやって来ねぇうちに、早いとこ、薩埵峠を攻め落そうよ!

しかしながら、もう既に運命が傾いてしまっている、という事なのであろうか、石塔も上杉も、総攻撃開始の指示をなかなか出そうとしない。

児玉党(こだまとう)武士団3,000余騎は、いてもたってもおられずに、単独行動にうって出た。

急峻な桜野(さくらの)方面から、薩埵峠目指して進軍を開始。この坂を守る尊氏軍勢力は、今川範氏(いまがわのりうじ)、南部(なんぶ)一族、波木井遠江守(はきいとおとうみのかみ)らが率いる300余騎である。

坂の途中、一段と高くなった所を切り開いて設置した防衛拠点から、彼らは、石弓多数を一斉に発射すると共に、大きな岩をゴロゴロ落としてくる。

児玉党の先陣数100人が、この岩に、盾の板を押し潰され、バタバタと倒れていく。

これを見て後陣の者らはひるんでしまい、少々退き気味になってしまった。

そこをすかさず、南部軍、波木井軍が一斉攻撃。大類行光(たいるいゆきみつ)、富田(とんだ)以下、児玉党17人が、一所にて討死にしてしまった。

しかし、直義軍の他のメンバーたちは、児玉党武士団の苦戦を見ても、一向に意に介しない。

直義軍リーダーK 児玉党がやられちゃったのかぁ、はぁーそりゃ残念だなぁ。

直義軍リーダーL なにもあんなに、あせんなくってもいいのにね。我々50万の軍が一斉に攻め上ってったら、薩埵峠なんかイッキに落せちゃうじゃないの。

直義軍リーダーM 何もしなくったって、そのうち必ず、相手は落ちてくれるんだよ。なのに、功名心にかられて戦なんかしかけちゃってさぁ。

直義軍リーダーN あげくの果てに、討死にかよ。

直義軍リーダーO もう、ばかげてるったらありゃしねぇ。

直義軍リーダー一同 わはははは・・・。

なにを言っている、「ばかげてる」のは君たちの方だぞ! 自分たちの運が、完全に傾いているのも知らずに・・・。

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12月27日、ついに、宇都宮軍がやってきた。

宇都宮軍3万余騎は、足柄山(あしがらやま:静岡県・駿東郡・小山町-神奈川県・南足柄市)に布陣していた直義軍をけ散らし、竹下(たけのした:静岡県・駿東郡・小山町)に陣を取った。(注7)

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(訳者注7)ここは、かつての、新田 versus 足利の戦場となった所。14-4 参照。
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小山判官(おやまはんがん)も宇都宮に加勢し、700余騎を率いて国府津(こうづ:神奈川県・小田原市)に到着した。

夜になってみれば、あたり一面、宇都宮軍の膨大な数のかがり火に満ち満ちている。直義軍50万騎は、大手もからめ手も、しばしの間も持ちこたえる事無く、四方八方へ逃亡。

これに乗じた仁木義長は、300余騎を率いて、逃走する直義軍を追撃し、伊豆国(いずこく:静岡県東部)の国府(静岡県・三島市)まで押し寄せた。

足利直義は、何の抵抗もできずに、北条(ほうじょう:静岡県・伊豆の国市)へ落ち延びた。

上杉憲顕と長尾左衛門は、2万余騎を率い、信濃国(しなのこく:長野県)を目指して撤退。千葉氏胤の一族約500騎がこれを追跡。彼らは、早川(はやかわ)河口付近(神奈川県・小田原市)で上杉らに追いついたが、兵力に勝る相手に逆に包囲されてしまい、一人残らず討ち取られてしまった。

退却を妨げる者は誰もいなくなり、上杉と長尾は、事なく信濃へ退く事ができた。

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思いもかけぬ自陣営の大崩壊に、足利直義は、完全にうちのめされてしまった。

北条に踏みとどまる事もできずに、伊豆の走湯山権現社(はしりゆやまごんげんしゃ:静岡県・熱海市)に逃げ込み、大きく吐息をつきながら、ただ座するのみ。

足利直義 (内心)身をやつして、どこかへひとまず、逃げて見ようか。

足利直義 (内心)いいや、もういっその事、ここで自害してしまおうか・・・。

足利直義 (内心)どちらにしよう・・・どちらに・・・。

このように思い煩っている所に、

足利直義側近 殿! 将軍様よりお手紙が!

足利直義 なにっ!(側近の手から手紙をひったくり、開く)

手紙 バサバサ・・・(開かれる音)。

足利直義 ・・・えぇ!「再度の和睦」?

尊氏からは、それからも矢継ぎ早に、「もう一度和睦をしよう」との旨をしたためた手紙が送られてくる。さらに、畠山国清、仁木頼章、仁木義長が、入れ替わり立ち代わり、迎えの使者としてやってくる。

足利直義 ・・・うーん・・・。

さすがの直義も、これには心がぐらついてしまった。

今の命の捨て難さに、後日の恥をも忘れてか、ついに、直義は降伏した。

降人の体で、尊氏に伴われて1月6日の夜、直義は鎌倉へ帰還した。

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