太平記 現代語訳 2-8 花山院師賢、天皇になりすまして延暦寺へ

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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御所を脱出の後、三条河原あたりにさしかかった時、後醍醐天皇は一つの手をうっていた。

後醍醐天皇 師賢(もろかた)!

花山院師賢(かざんいんもろかた) ははっ!

後醍醐天皇 護良(もりよし)が、あないなふうに、色々と作戦立ててくれたよったしな、いっちょあの通りにして見よ、思うんやわ。

花山院師賢 はい。

後醍醐天皇 お前な、わしになりすまして、比叡山(ひえいざん)に登ってな、延暦寺(えんりゃくじ)の衆徒連中らの心、探ってみ。ほいでな、うまぁいことやって、こっちの味方に引き入れい。他からも、兵力動員して、合戦せい。

花山院師賢 ははっ!

師賢は、法勝寺(ほっしょうじ:京都市左京区)の前で天皇の礼服に着替え、天皇用の輿(こし)に乗って延暦寺・西塔(さいとう)エリアへ登山していった。

四条隆資(しじょうたかすけ)、二条為明(にじょうためあきら)、中院貞平(なかのいんさだひら)らも衣冠をただし、天皇のお供に扮して付き従った。

一行の姿は、いかにも、天皇の行幸のように見えた。

延暦寺に到着の後、西塔(さいとう)エリアの釈迦堂(しゃかどう)を「皇居」と定め、「陛下が、延暦寺を頼って行幸あそばされたぞ!」と発表した。

この情報が伝わるやいなや、比叡山上、坂本(さかもと:滋賀県大津市)は言うに及ばず、大津(おおつ)、松本(まつもと)、戸津(とづ)、比叡辻(ひえつじ)、仰木(おおぎ)、絹河(きぬがわ)、和仁(わに)、堅田(かたた)(以上いずれも、滋賀県大津市内の比叡山東山麓・琵琶湖南岸に位置する)の者までも、我先にとはせ参じてきて、その軍勢は東塔(とうとう)・西塔両エリアに雲霞(うんか)のごとく充満した。

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このような情勢の変化を、六波羅庁は全くキャッチしていなかった。

鎌倉よりの二人の使者が、夜明けとともに御所へ押し入り、天皇を六波羅庁へ移そうということで、今や出動というところに、延暦寺・浄林房(じょうりんぼう)の豪誉阿闍梨(ごうよあじゃり)のもとから、使者がやってきた。

使者 豪誉様よりのお言葉を、申し上げます。

 「今夜の午前4時ごろに、延暦寺を頼って、天皇がこちらにやってこられました。延暦寺の衆徒3,000人ことごとく、その下にはせ参じてます。」

 「「近江(おうみ:滋賀県)、越前(えちぜん:福井県東部)からの援軍が到着しだい、明日にでも、六波羅庁へ攻め寄せよ」と、こっちの作戦会議で決まりました。」

 「事が大きぃならんうちに、六波羅庁から速やかに、坂本へ軍を向けられませ。私の方は、天皇軍を背後から襲い、陛下を捕えるようにしますから。」

大いに驚いた六波羅庁・両長官は、ただちに御所へ急行。そこにはすでに天皇の姿はなく、そこかしこの部屋の中に女たちが集まって泣いている声が聞こえてくるばかりである。

六波羅庁・メンバーA うん、間違いねぇですね、豪誉の言う通りだ。

六波羅庁・リーダーB 天皇は、延暦寺へ逃亡したと思われます。

六波羅庁・リーダーC あちらの勢いが大きくならないうちに、延暦寺、攻めるべきだよな!

そこで、六波羅庁では、[京都市中48か所・警護番所]づめの武士たちと、近畿圏5か国の軍勢あわせて5,000余騎を、正面方向・攻略軍として編成し、赤山禅院(せきさんぜんいん:京都市左京区)のふもと、一乗寺下松(いちじょうじさがりまつ:京都市左京区)のあたりに向かわせた。

一方、背面方向・攻略軍として、佐々木時信(ささきときのぶ)、海東将監(かいとうしょうげん)、長井宗衡(ながいむねひら)、小田貞知(おださだとも)、波多野宣道(はだののぶみち)、小田時知(おだときとも)に、美濃(みの:岐阜県南部)、尾張(おわり:愛知県西部)、丹波(たんば:京都府北西部+兵庫県中東部)、但馬(たじま:兵庫県北部)の勢をそえて7,000余騎の軍を編成し、大津、松本を経て唐崎一つ松(からさきひとつまつ:滋賀県大津市)のあたりまで進軍させた。

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延暦寺サイドは、かねてよりの作戦どおりに、宗良親王(むねよししんのう)と護良親王(もりよししんのう)が、宵の内より八王子社(はちおうじしゃ)に移動し、そこで軍旗を掲げた。護正院(ごしょういん)の祐全・僧都(ゆうぜんそうづ)、妙光坊(みょうこうぼう)の玄尊・阿闍梨(げんそんあじゃり)をはじめ、こちらから300騎、あちらから500騎と、八王子社にはせ参じてきて、一夜のうちに6,000余騎の大軍にまで膨張した。

かくして、天台座主(てんだいざす)・護良親王をはじめ、延暦寺の人々は、解脱(げだつ)の衣たる袈裟(けさ)を脱ぎ捨て、堅固な鎧と鋭利な武器を身に帯す体になった。仏が神に化身されて護りの力を垂れたまう場もたちまちにして、勇士が守護する戦場に変じてしまった・・・神のみこころはいったいどこに・・・いやはや、もうまったく、わけが分からなくなってきてしまった。

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そうこうするうちに、

 「六波羅庁の軍勢はもう、戸津宿(とつじゅく)のへんまで押し寄せてきたぞ!」

ということで、坂本は騒然としてきた。

南岸の円宗院(えんしゅういん)、中坊(なかのぼう)、勝行房(しょうぎょうぼう)の、ハヤリたつ同輩の僧たちは、取る物もとりあえず、唐崎浜(からさきはま)へ押し出し、六波羅軍に対峙(たいじ)。全員、馬に乗らず歩兵の体、人数300人足らず、といったところか。

これを見た六波羅庁派遣軍リーダー・海東将監(かいとうしょうげん)は、

海東将監 敵は小勢だぞ。後づめの連中が加勢に加わって来ないうちに、掛け散らしちまわねば! みんな、おれに続け、イェーィ!

叫ぶやいなや、3尺4寸の太刀を抜き、鎧で護られた左腕をかざし、敵のひしめくまっただ中に掛け入って、3人を斬り伏せ、波打ちぎわに馬を留めて、自分に続く味方軍勢を待つ。

はるかかなたからこの様を見ていた岡本房・快実(おかもとぼうかいじつ)は、前につき並べた盾の1枚をカッパと踏み倒し、2尺8寸の小長刀を水車のように振り回し、海東めがけて襲いかかっていった。

海東は、快実の攻撃を左サイドに受けながら、相手の兜(かぶと)の鉢をまっ二つに打ち破らんと、右手だけで太刀を振り下ろした。

海東将監 えぇい、くらえーぃ!

海東の太刀 サパッ!

狙いの外れてしまった太刀は、快実の鎧の袖だけを、肩から最下部まで切って落としただけであった。

海東将監 くそっぉ! ではもう一回!

二回目の太刀を振り下ろしたときに、海東は力が入りすぎて、左足の鐙(あぶみ)を踏み折ってしまった。

あわや落馬かという体勢を海東が立て直したタイミングを狙いすまし、快実は長刀を伸ばし、刃先を上に向け、海東の兜の内側の方へ2回、3回と連続突きを入れた。

快実 ヘイヘイヘイ!

その狙いは過たず、刃先は海東の喉笛を貫き、彼は馬からまっさかさまに落ちた。

すかさず駆け寄った快実は海東の鎧の背部の上に乗りかかり、耳の側の髪をひっ掴むやいなや、海東の首をサアッと掻き切り、長刀の先にそれを突き刺し、大喜びで声高らかに、

快実 六波羅軍の大将、一人討ち取ったでぇ! なかなか幸先(さいさき)、ええやないかぁい!

その時、戦闘見物の群衆の中から、どこの誰とも分からぬ15、6歳くらいの少年が一人、飛び出してきた。童形ヘアスタイル、淡黄がかった青の胴丸鎧を着用、大口袴の股立(ももだち)を高くしている。

少年は、金装飾の小太刀を抜き、快実の側近くまで走りかかり、兜の鉢を3,4回、激しく打った。

快実はキッと振りかえり、自分に襲いかかってきた相手を見つめた。相手は、眉を太く描き、お歯黒で歯をそめた年の頃16歳くらいの少年である。

快実 (内心)こんな子供を討ち取るのは、法師の我が身としてはあまりに無情な話や、なんとかして、こいつの命を奪わずにすませよう。

しかし、少年はなおも、執拗に走りかかり、切りつけてくる。

快実 (内心)長刀の柄の方を使ぉて、あの太刀を打ち落とし、組み伏せてしまおか。

その時、戦線に加わっていた比叡辻の者たちが、田の畦に立ち並んで側面から一斉に射撃した矢に、この少年は胸板をツッと射抜かれ、直ちに倒れて絶命してしまった。

後日、少年の身元を調べたところ、海東将監の嫡子・幸若丸(こうわかまる)と、判明。家に留めおかれ、戦場への父の供ができなかったが、どうしても気がかりであったのであろうか、見物の群衆にまじって、軍の後をついてきていたのである。

年少といえども武士の家に生まれた幸若丸、戦場に死した父の後を追って同じく討ち死に、名を歴史の上に止めたのである・・・ああ、哀れなことよ。

これを見た海東家の郎等(ろうとう)たち、

海東家・郎等D 我らの主を二人までも、目の前で討たれた上に、

海東家・郎等E 殿の首を敵に取られて、

海東家・郎等F 生きて帰れるものか!

海東家・郎等一同 ウォーッ!

郎等36騎、馬の首を並べて一斉に駆け入り、主の死骸を枕に討死にせんと、競い合う。

これを見た快実、

快実 ワッハッハッハァ! けったいなやっちゃらやなぁ。敵の首を取るのが大事やろうに、味方の首を欲しがるとは。これはさしづめ、鎌倉幕府自滅のめでたい前兆やろぉて。そないにこの首、欲しかったらな、くれたるわい、ほれ!

手に持った海東の首を郎等たちの中にガバッと投げ入れ、快実は真っ向から太刀を振りかざし、八方を払って火花を散らす。郎等36騎、快実たった一人に切りまくられ、馬の足も立ちかねる状態に。

後方からこれを見た、佐々木時信、

佐々木時信 海東家のもん(者)ら、死なせてはあかんぞ、みんな、彼らに続け!

その命令一下、伊庭(いば)、目賀田(めかだ)、木村(きむら)、馬渕(まぶち)ら300余騎、一斉におめいて、快実めがけ襲いかかる、快実の命は風前の灯!

桂林房・悪讃岐(けいりんぼうあくさぬき) 快実、応援に行くぞぉ!

桂林房・悪讃岐、中房・小相模(なかのぼうこさがみ)、勝行房・定快(しょうぎょうぼうじょうかい)、金蓮房・直源(こんれんぼうじきげん)の4人が、左右から快実の応援にかけつけて、六波羅庁側を切りまくる。

悪讃岐と直源が同所に倒れるのを見て、後づめの延暦寺宗徒50余人、一斉攻撃をしかける。

この合戦が展開されている唐崎浜(からさきはま)という場所は、東側は湖に面して崩落しており、西側は泥深い田で馬の足も立たず、平らな砂原の中に狭い道が延び、という地形である。従って、敵の背後に回り込んで包囲するのも不可能、左右に広く展開して敵を包み込むのも不可能。延暦寺サイドも六波羅庁サイドも、正面に位置する者たちだけが戦闘し、後方の者はそれをただじっと眺めているしかない。

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「唐崎浜で戦闘開始!」との情報をキャッチし、延暦寺サイド3,000余騎が、白井(しらい)経由の今路越(いまみちごえ)ルートへ向かう。一方、東塔エリア所属の宗徒7,000余人、三宮(さんのみや)の林から下山。さらに、和仁(わに)、堅田(かたた)の勢力が小舟300余隻にうち乗り、六波羅庁軍の背後を遮断すべく、大津めざして漕ぎ出だす。

これらの延暦寺サイドの動きを見た六波羅庁サイドは、「このままでは敗北必至」と判断、志賀の炎魔堂(しがのえんまどう)前から今路越ルート経由にて京都への退却を開始。

周辺の地理に詳しい延暦寺サイドは、ここかしこの要所に移動して、六波羅庁サイドに、散々に矢を浴びせかける。地理に不案内な六波羅庁サイドは、周辺の掘や崖に進行を妨げられ、あちらこちらと馬を乗り回すばかりで、なかな退却が捗(はかど)らない。

しんがりの、海東軍団の若党8騎、波多野軍団の郎等13騎、真野(まの)父子2騎、平井九郎(ひらいくろう)主従2騎が、谷底に追い落とされ、討ち死にした。

佐々木時信も、馬を射られ、乗り換え用の馬を待っている間に、左右から敵の大軍が押し寄せてきた。

佐々木家・若党たち 殿が危ない!

名を惜しみ命軽んじる佐々木家の若党たちは、必死の反撃に反撃を重ね、わが身は次々と倒されながらも、主君の為に一条の血路を切り開いていく・・・かくして、佐々木時信は、万死(ばんし)を出(い)でて一生(いつしょう)に合い、白昼、京都へ逃げ帰った。

最近までは、天下静穏無事が続き、「軍(いくさ)」の言葉が人の耳に触れるような事は絶えて無かったというのに、にわかに起こったこの異変に、京都中、総パニック状態、天地が今にもひっくりかえるかのように、情報は都中をかけめぐる。
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