太平記 現代語訳 29-6 越水の戦い

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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その日の暮れ近くに、摂津国守護の赤松範資(あかまつのりすけ)からの使者が、足利尊氏(あしかがたかうじ)の本陣へやってきた。

使者 主よりのメッセージ、申し上げます。
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 「八幡(やわた)より、石塔頼房( いしどうよりふさ)、畠山国清(はたけやまくにきよ)、上杉能憲(うえすぎよしのり)を大将に7,000余騎が出陣、光明寺(こうみょうじ)にたてこもっとぉ連中らに加勢せんと、こっちに向かぉとりますで。前に聳(そびえ)えたっとぉ光明寺の守りはかたいというのに、この上さらに、後方からこないな大軍に攻めかかられてもたら、我が方はエライ事になってしまいますで」。

 「そやから、ここはまず城攻めを中止されて、神呪寺(かんのうじ:兵庫県・西宮市)、鷲林寺(じゅうりんじ:西宮市)、越水(こしみず:西宮市)のあたりで、こっちへ向うとぉ敵軍を迎え撃つ、こないなフウにしていかはったら、敵側の敗北は間違い無しですわ。その一戦に勝利できたら、敵側がいくら方々に根拠地を構えてたかて、そんなもん、そうそういつまでも、もちこたえれるもんやないでしょう」。

 「ここはとにかく、ただイッキに戦を決して、万方(ばんぽう)に勝利を計るべき局面や、と思われますが。」
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このようなメッセージを、早馬でもって、1日に3回も言ってきた。

高師泰(こうのもろやす) 八幡からやってくる敵軍の兵力が、赤松の言う通りなら、そんなもん、我々にとっちゃ、何の脅威にもなりませんやなぁ。

高師直(こうのもろなお) そうです、そうです。たったの7,000騎なんて、イタクもカユクもない。わが方の兵力、優に、その10倍はあるじゃないですか。

高師泰 (光明寺を指さしながら)なんせ、あんな険しい山の上にある寺だからね、そりゃぁヒトスジナワじゃぁ攻めきれませんわ。でもね、平地で激突してイッキに勝負を決するって事になったら、そりゃぁ絶対に我が方有利、勝てねぇわけがねぇや。

足利尊氏 ・・・よし・・・城攻めを中止・・・こちらへやってくる敵軍を迎え撃つ。

高師泰 ヘェーイ!

高師直 わかりやんしたぁ!

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2月13日、尊氏と高兄弟は、光明寺の山麓を発ち、兵庫の湊川(みなとがわ:兵庫県・神戸市・兵庫区)へ向かった。

八幡から派遣された光明寺救援軍3,000余騎を率いる畠山国清はその時、播磨国の東条(とうじょう:兵庫県・加東市)に到達していたが、「どこであれ、とにかく、高兄弟の現在いる所へ向かうべし」ということで、有馬(ありま:神戸市・北区)を南へ越えて、打出(うちで:兵庫県・芦屋市)北方の小山に陣取った。

光明寺にたてこもっていた石塔右馬頭(いしどううまのかみ)、上杉朝房(うえすぎともふさ)らは全員、光明寺を出て、畠山軍に合流した。

17日夜、尊氏と高兄弟率いる2万余騎は、御影(みかげ:神戸市・東灘区)海岸まで進み、そこで大手とカラメ手の2方面に軍を分けた。

足利尊氏 戦闘を、大手方面軍よりまず開始。戦い半ばのタイミングに、カラメ手方面軍は、浜の南方から押し寄せ、敵を包囲せよ。

尊氏軍リーダー一同 わかりましたぁ!

尊氏軍に参加していた薬師寺公義(やくしじきみよし)は、

薬師寺公義 (内心)今度の戦、どうも心配なんだよなぁ。

薬師寺公義 (内心)我がサイドの兵力は、敵のそれを大きく上回ってはいる・・・いや、それはたしかに、紛れも無い事実だよ・・・うん、それはそれで、非常にいい事だよ・・・でもなぁ・・・どうも、兵力の多さを頼んで油断してるムキが、わが陣営のあちらこちらに見うけられてならんのだ・・・こんなチョウシのままで行ってしまったら、思いもよらぬ事態になってしまうかも・・・うーん・・・。

薬師寺公義 (内心)今度のこの戦・・・自分にとっての、一生の一大事ともいうべき戦になりそうな・・・なんだか、そんな予感がしてきちゃったなぁ。

薬師寺公義 (内心)とにかく、キアイ入れて引き締めていこう! 我が薬師寺軍だけは、他の連中とは違うんだぞって心意気、バッチシ表していきたいねぇ!

公義は、絹布3枚を縫い合わせて5尺長の旗を作り、その両サイドに、赤色の手を装着した。(注1)

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(訳者注1)原文では、「絹三幅を長さ五尺に縫合せて、両方に赤き手を著たる旌をぞ差たりける。」

「手」は、旗の上端頂点と竿を結ぶ緒である。
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薬師寺公義 (内心)うん、いいぞ、この旗だったら、ものすごい目立つよ、いいねぇ!

公義は、一族手勢200余騎を率いて、雀松原(すずめのまつばら:神戸市・東灘区)の木陰に待機し、大手方面の戦闘開始を今か今かと待ち構えた。

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作戦通りに、大手方面での戦闘が始まった。河津氏明(かわづうじあきら)、高橋英光(たかはしひでみつ)率いる大旗一揆(おおはたいっき)武士団6,000余騎が、一斉に畠山軍めがけて押し寄せ、トキの声を上げる。

畠山軍側は、静まりかえっている。わざとトキの声を返さずに、こちらの薮陰(やぶかげ)、あちらの木陰に身を隠しながら、さしつめひきつめ散々に矢を射る。

大旗一揆武士団の最前線にいた武士数100人が、その矢に当たり、馬から真っ逆さまに落ちていく。

これを見て、後陣の方は逃げ腰になってしまい、前進が止まってしまった。

河津氏明 えぇい、みんな、何してやがんでぇ! 矢射てるだけじゃぁ戦はできねぇ! 刀抜いて、かかっていきやがれぃ!

氏明は、弓を薮の中へカラリと捨て、3尺7寸の太刀を抜き、畠山軍の群がる中に一言のあいさつもなく駆け入らんと、馬を進めた。

小高い場所に達したまさにその瞬間、氏明は、畠山軍からの矢の猛攻を浴びた。十方から鏃(やじり)を揃(そろ)えて射られた矢は、彼の乗馬に次々と命中、首の両側、右側前足の付け根、右側後足の大腿部の4か所に刺さった矢は、矢竹の中ほどまで馬体に陥入した。馬は、膝を折ってドウと倒れ伏す。

氏明は朱色に染まり、倒れた馬の側に立つ。これを見た畠山軍200余騎が、おめいて大旗一揆武士団に襲い掛かっていく。

後方に控える尊氏サイド大手方面軍は、彼らの救援にやってこようともしない、負傷者を助けにかけつけようともしない、馬の尻に鞭を打ち、左右同時に鐙を踏み蹴り、一斉に退却しはじめた。

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石塔右馬頭は、そこから10余町ほども隔たった所に陣を構えていて、我が味方の畠山軍の優勢の下に、戦況が進んでいる事をまだ知らない。

石塔右馬頭 おいおい、あの打出浜に靡(なび)いている旗、見えるだろ?

原義実(はらよしざね) はい。三本ありますね。

石塔右馬頭 あれは、敵か味方か、ちょっと見てこいや。

原義実 ハハッ!

義実はすぐに、打出浜へ馬を走らせた。

そこには、赤い手を左右に装着した3本の小旗が立っていた。

原義実 (内心)こんな旗を立てるもんは、わが方にはおらん。これは敵側のヤツだ。

原義実 (戦場をじっと観察して)(内心)ホホォ・・・畠山軍優勢ですか・・・やったねぇ!

義実は、馬を返して自陣に向かった。

原義実 (内心)このまま徒(いたず)らに、馬の足を疲れさすってのも、なんだかなぁ・・・よぉし!

義実は扇を掲げて、自軍を招いた。

原義実 おーい! 浜の南に控えてるのは敵軍だぞーー! こっちじゃ畠山軍が勝ってるぞーー! みんなぁー、早く、敵にかかれぇーー!

血気盛んな石塔軍、上杉軍の武士らが、これを聞いて躊躇(ちゅうちょ)するわけがない。700余騎の武士たちが、馬の首を並べ、一声おめいて一斉突撃にかかった。

これを見て、薬師寺公義の後方に控える高兄弟率いる大軍は、未だ、たった一本の矢を射らてもいないのに、激しく馬に鞭打って退きはじめた。

梶原孫六(かじわらまごろく)と梶原弾正忠(かじわらだんじょうのちゅう)は、高軍に所属していたが、心ならずも退却する味方にまきこまれ、6、7町程も退いた。

二人は、「このままでは後世の名折れ、梶原の家名に泥を塗る事になってしまう」と思い、たった二人だけで引き返し、石塔・上杉の大軍中に懸け入った。

しばらくは、二人一緒に戦っていたが、やがて離ればなれになってしまった。しかしなおも、命を限りに戦い続けた。

梶原孫六は、3人を切って落し、敵陣の裏へツッとかけ抜けた。

後に続く味方も無く、また、彼を見咎(みとが)める者もいないので、「敵軍に紛れて命助かろう」と思い、笠標(かさじるし)を取り除いて袖の下に隠した。孫六は、そこから西宮戎神社(にしのみやえびすじんじゃ:兵庫県・西宮市)まで馬を走らせ、夜になってから小舟に乗って、足利尊氏の本陣へ帰ってきた。

一方、梶原弾正忠は、敵陣中に紛れこもうともせずに、懸け入っては戦い、懸け入っては戦い、7度、8度と馬煙を立てて戦い続けた。しかし、彼もついに、藤田小次郎(ふじたこじろう)と猪股弾正左衛門(いのまただんじょうざえもん)に討ち取られてしまった。

藤田小次郎 この男、すげぇヤツだったな。勇猛果敢この上無しってカンジだったじゃぁねぇの。

猪股弾正左衛門 いったい、どこの誰なんだろう?

藤田小次郎 おい、見ろよ、エビラの上に、梅の花が一輪さしてあるじゃないか。

猪股弾正左衛門 あぁ! さてはこいつ! 元暦(げんりゃく)の古(いにしえ)に、一の谷(いちのたに)の合戦で2度も敵陣に突入して武名を揚げた、あの梶原景時(かじわらかげとき)の子孫だよ、きっと。(注2)

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(訳者注2)源平盛衰記等に、「梶原景時がエビラに梅花を差して戦場に赴いた」と、記されているようだ。
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まさに、名乗りを上げずして、その名を知られる事となったわけである。

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薬師寺公義 ハァー・・・(溜息)やっぱし、こうなっちまったかい・・・こっちは総勢2万余騎いるんだよぉ・・・なのに、戦闘開始早々、もうこんな総崩れ状態になっちゃってさぁ。

薬師寺公義 えぇい、とにかくここは、戦うのみ!

薬師寺軍250騎は、石塔軍・上杉軍700余騎を山際まで追いつめ、後続の味方を待った。しかし、援軍に駆けつけてくる者は一騎もいない。仕方なく、再び波打ち際に戻り、静かに退却を開始した。

それを見た石塔・畠山の大軍は、

石塔軍メンバーA あの左右両方に吹き流しがついてる旗、いったいどこの家のだ?

石塔軍メンバーB ありゃぁおそらく、薬師寺公義の軍だぜ。

畠山軍メンバーC わぁぉ、薬師寺なら相手にとって不足無しだぁ。

石塔軍メンバー一同 行け、行けぇ!

畠山軍メンバー一同 一騎残らず、やっちまえぃ!

彼らは一斉に薬師寺軍を追撃した。薬師寺軍250騎は、相手が後ろに近づいてくれは一斉に馬をキット反して戦い、前方を遮る者があれば一斉にワットおめいて懸け破り、打出浜の東から御影浜の松原までの間、16回も返し合わせて戦った。討たれる者あり、敵に懸け散らされる者あり、最終的には、薬師寺公義、薬師寺義冬(よしふゆ)、薬師寺義治(よしはる)ら、たった6騎だけになってしまった。

しばらく馬を休ませながら彼方を見ると、輪違(わちがい)(注3)の笠標を着けた武士がたった一人で、相手7騎に包囲されているのが見えた。彼の乗馬は、既に白砂の上に倒れてしまっている。

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(訳者注3)高家の紋。
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薬師寺義冬 あれはきっと、松田左近将督(まつださこんしょうげん)殿ですよ。目の前で味方が今にも討たれようってぇのに、それを見捨てるのは、どうもねぇ。

薬師寺公義 よぉし、行くか!

薬師寺軍6騎は、一斉にそちらへ馬を走らせた。これを見た7騎はそこから逃げ去り、松田は命拾いをした。

松田左近将督と薬師寺公義ら7人が、しばらくそこにいる間に、彼らの手勢が再び方々から集まってきて、その兵力は100騎ほどにまで回復した。

このように、先陣を切って尊氏軍を2、3町ほども退かせた石塔と畠山ではあったが、さすがに戦い疲れたのであろうか、そこで追撃をストップした。

戦いは終わった。

薬師寺公義は、鎧に突き立った矢を折り、湊川へ帰った。

湊川には、敵陣営の旗を目にする事もないままに、ふがいなく退いてしまった2万余騎の武士たちがひしめいていた。皆、闘志を完全に失ってしまっており、どこへ逃げて行こうかと、必死の算段をするのみの状態である。

薬師寺公義 (内心)いやはや、まったくヒドイもんだんねぇ・・・まるで、泥に酔った魚が水溜まりの中でアップアップしてやがるみたい。

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今回のこの合戦についてつらつら考察してみるに、双方の兵力比較(尊氏側、圧倒的多数)と、実際の戦闘結果(尊氏側、完敗)との、そのあまりのギャップに、私・太平記作者は、唖然(あぜん)としてしまうのである。

尊氏サイドはいったいなぜ、このような無惨な敗北を喫してしまったのであろうか? きっと、そこには、何か深いワケがあるに違いない。

思い当たるフシが無いでもない・・・。

実は、戦いの前夜、まことに不思議にも、高師夏(こうのもろなつ)と河津氏明が、全く同じ内容の夢を見ていた、というのである。

高師夏 いや、その夢ってのがさ、ジツにいやぁな夢でねぇ・・・いったいどこだか、場所は分かんないんだけどさ、だだっ広(ぴろ)ぉい平原にボクはいるんだ・・・で、その東西に、今まさに戦いを始めようとしている両軍が対峙(たいじ)してるんだ。

高師夏 ボクら高家一族の軍は、その平原の西側にいる。父上をはじめ、叔父上(注4)、一族郎従数万騎。ギッシリと密集して馬の首を並べてね。

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(訳者注4)高師夏は師直の子なので、師泰は彼の叔父に当たる。
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高師夏 平原の東側には、直義(ただよし)殿、そして石塔頼房、畠山国清、上杉憲顕(うえすぎのりあき)が・・・そうさなぁ、兵力合計1千余騎ってとこかなぁ。

高師夏 両陣、トキの声を合わせ、戦闘開始。

高師夏 やがて、石塔と畠山が、旗を巻いて退却し始めた。ボクらは、勝(かち)に乗じて彼らを追撃していった。

高師夏 その時突如、雲の上に錦の旗が一本上がったんだよ。でもって、その旗の下からね、100騎ほどが現れた。

高師夏 その軍を率いてるの、いったいどこの誰なのかなぁって、よくよく見たらさ、なんと、それが!

高師夏 左翼軍を率いてるのは、吉野山(よしのやま)におわすあの金剛蔵王権現(こんごうざおうごんげん)様なんだ! 頭に角があって、8本足の馬に乗っておられるんだよね。その前と後ろにはね、吉野山の子守三所権現(こもりさんしょごんげん)と勝手明神(かってみょうじん)が、金の鎧に身をかため、鋼鉄の盾を手挟(たばさ)んで従っておられるんだ。

高師夏 右翼軍の方を見て、ボカァもう、ビックリ仰天しちゃったねぇ。そっちの大将はさ、あの天王寺(てんのうじ)を建てた人・・・そうなんだよ、あの聖徳太子(しょうとくたいし)様なんだよ! 甲斐(かい:山梨県)国から献上の黒馬に白い鞍を置き、その上に乗ってんだなぁ。その脇には、日本史上の重要人物がズラズラだよぉ。まずは大臣(おおおみ)の蘇我馬子(そがのうまこ)が甲冑を帯して太子の脇を守ってる。それにね、小野妹子(おののいもこ)、跡見赤檮(あとみのいちい)、秦河勝(はたのかわかつ)、そんな人らが、弓矢持って太子の前を進んでるってわけよぉ!

高師夏 父上は叫ばれた、「敵の右翼、聖徳太子が率いてる方が兵力少いぞ、まずあっち側からやっつけちまいな! 包囲して全員討ち取っちまえぃ!」。で、みんなでウォーって、襲いかかってった。

高師夏 するとさ、左翼軍大将の金剛蔵王権現が、目をいからせて叫んだ、「あやつらを射て落とせい!」

高師夏 その命令一下、子守三所権現、勝手明神、跡見赤檮、秦河勝が、四方にさっと散開した。そいでもって、四方から一斉に矢を放ってきた。

高師夏 まず、叔父上がやられた。次に、師世(もろよ:注5)が・・・父上も・・・そして・・・そして・・・4本目の矢が、ボクの眉間(みけん)に・・・。(目を閉じて身震い)

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(訳者注5)師泰の子。
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高師夏 4本の矢が、4人の眉間のど真ん中を貫通、みんな馬から落ち、地ひびきをたてて落下。

高師夏 で、そこで夢から覚めたんだ・・・。

高師夏 あーあ、ほんとにもう、こんな大事な戦の前夜だってのに、いやぁな夢見ちゃったもんだよなぁ。今日の戦、大丈夫かなぁ?

このように、夢見の内容を朝、高師夏は周囲に語っていたのだが、果たして、その夢の通りになってしまったのである。

この話を聞いた人は全て、高家一族の今後を危惧し始めた。

この夢の記録は、吉野の某寺の僧侶が保管している。読者は決して疑ってはならない、これは正真正銘の「実際にあった事」なのである。(注6)

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(訳者注6)原文では、「此夢の記録、吉野の寺僧所持して、其の隠れなき事也」。しかし、太平記作者がここでいくらこのように言ってみても、この話の信憑性はまことに疑わしいものがあるとしか、言いようが無い。これもまた例によって、太平記作者のフィクションに過ぎないのかもしれないと、訳者には思えてならない。
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