太平記 現代語訳 16-10 楠正成、兵庫へ向かう

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田義貞(にったよしさだ)からの急報が、朝廷に届いた。

 「足利尊氏(あしかがたかうじ)と直義(ただよし)、大軍を率いて京都へ向けて進軍中、要害の地においてその進行を阻止すべく、わが軍、兵庫(ひょうご:兵庫県・神戸市・兵庫区)まで退却!」

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は大いに驚き、楠正成(くすのきまさしげ)を、御所に呼び寄せた。

後醍醐天皇 正成、正成! はよ、兵庫へ出向いて、義貞と力を合わせて戦え!

楠正成 陛下、おそれながら、申し上げます!

後醍醐天皇 うん。

楠正成 足利尊氏は、筑紫(つくし:福岡県)等、九州全域の武士を率いて、こちらに向かっとります。おそらく、その兵力は膨大ですやろ。それにひきかえ、こっちはどうでっか、戦い疲れた小勢の兵力しかありませんやん! こんな態勢でもって、勢いに乗った敵軍にまともに立ち向こぉていっても、どないもこないも、しょうがありませんわ。こっち側の敗北は確実、そうや、敗北は確実ですやん!

後醍醐天皇 なら、どないしたらえぇねん!

楠正成 持久戦です、陛下、持久戦ですわ!

後醍醐天皇 ・・・。

楠正成 まず、新田殿を京都へ呼び寄せられ、彼を伴って陛下はこないだみたいに、比叡山(ひえいざん)の延暦寺(えんりゃくじ)に避難なされませ。そうやっといて、まずは、足利軍を京都へ入らせるんですわ。

楠正成 で、私は、河内(かわち)へ移動してから、近畿勢を率いて、淀川の河口(よどがわかこう:大阪市)周辺一帯を押さえて、足利軍のロジスティックス・ライン(注1)を断ち切りますわ。

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(訳者注1)兵站(へいたん)線。食料、武器弾薬等の輸送ルート。
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後醍醐天皇 ん・・・で?

楠正成 かたや比叡山から、かたや淀川河口方面から、というように、東西両方向から京都の中にいる足利軍を圧迫しながら、敵軍を兵糧不足の状態に追い込みます。そないなると、足利サイドからは逃亡者続出、兵力は次第に減衰。一方、こっちサイドに馳せ参じてくる者は増えていき、わが方の兵力は日増しに増大。機を見計ろぉて、新田殿は比叡山から、私は大阪方面から京都に進軍、かくして、一戦にて朝敵を殲滅(せんめつ)!

後醍醐天皇 ・・・。

楠正成 新田殿かて、おそらく、私と同じ戦略、考えてると思いますでぇ。せやけど、あの人にはあの人の立場っちゅうもんが、ありますやんかぁ。進軍してくる足利軍に対して、ただの一戦もやらんと退却となりますとな、世間からは、「新田は、なんちゅうフガイナイやっちゃねん!」てなふうに、罵られますやん。せやから、あえて、兵庫で踏みとどまってるんですやろなぁ。

楠正成 わしに言わせれば、そんなもん、なんとでも言わしとけぇ、ですけどなぁ。敵の大軍におじけづいて、京都から逃亡? あぁ、逃亡したした、逃げたでぇ。で、それがなんやっちゅうねん?! 戦なんちゅうもんは、しょせん、結果オーライのもんやんけ! 最終的に勝てさえしたら、それでえぇんちゃうかい? 途中経過、そうや、途中経過なんか、どうでもえぇんですわ、陛下!

後醍醐天皇 ・・・。

楠正成 陛下、なにとぞ、よくよく御深慮あそばされた上で、朝廷の議決を、お願いいたします!

それを聞いた会議出席メンバーらは、

公卿A なるほどなぁ。

公卿B やっぱし、「餅は餅屋」ですかいなぁ。

公卿C 戦の事やったら武士に任せとけよ、という事ですわなぁ。

公卿D 楠の戦略、なかなかよろしやん。

坊門清忠(ぼうもんきよただ) 正成の申す所もなるほど、もっとも。しかしながら、朝敵征伐の為に派遣された将軍が一戦もせん前に、あたふたと、帝都(ていと)を後にして比叡山へ退避するのは、いかがなものかと・・・そないなると、1年の中に、1度ならず、2度までも、比叡山に、という事になりますわなぁ。(注2)

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(訳者注2)14-8において、後醍醐天皇は京都から延暦寺へ避難しているので、ここで避難すると、清忠が言うように、1年の間に2度、避難することになる。
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坊門清忠 そないな事では、陛下の権威は、いったいどないなりますか! 朝廷軍が掲げる錦の御旗に、何の威力があると言えますでしょうか!

公卿一同 ・・・。

坊門清忠 いくら、尊氏が九州の大軍を率いて攻め上ってくると言うたかて、去年、関東8か国の軍勢を従えて、京都へ向かって来た時の勢いには劣るでしょう。

坊門清忠 その時も、緒戦から敵の敗北まで終始一貫、我がサイドの兵力は劣ってました。そやけど、戦うたんびに、足利の大軍を攻め靡(なび)かせる事が出来ました。その勝利の要因は、戦略の優れたるにあったのではありません、ただただ、陛下の御聖運が、天の定めに叶ぉておられたからです。

後醍醐天皇と公卿一同 ・・・(身を乗り出す)。

坊門清忠 ならば、今回も同様です。帝都の外に勝負を決して、朝敵を打ち負かす事に、いったい何の困難がありましょうや! すぐに、楠正成を兵庫に向かわせるべきです!

後醍醐天皇と公卿一同 ・・・(深くうなずく)。

楠正成 ・・・。

後醍醐天皇と公卿一同 ・・・。

楠正成 分かりました。この上は何も申し上げる事、ございません。兵庫へ出陣いたします。

5月16日、楠正成は、500余騎を率いて京都を出発、兵庫へ向かった。

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正成は、「これが自分の最後の戦」と、覚悟を定めていた。

正成の嫡子(ちゃくし)・正行(まさつら)は、その時、11歳の少年であったが、父と共にその軍中にあった。

櫻井宿(さくらいじゅく:大阪府・三島郡・島本町)にさしかかった時、父は息子に、

楠正成 正行!

楠正行 はい!

楠正成 あんな、わし、ちょっと、考える事あってなぁ・・・。

楠正行 はい?

楠正成 おまえな、こっから、河内へ戻れ。

楠正行 えぇっ?

楠正成 河内へ、そうや、河内へ戻るんや、おまえはな!

楠正行 ・・・。

楠正成 よぉ聞けよ・・・ライオンは、出産の3日後、子供を、高さ数千丈の断崖から投げ落とすと言う。もしもその子に、百獣の王に育つべき素質があるならば、誰に教えられるともなく、空中から跳ね返って、墜落死せんですむという・・・。

楠正行 ・・・。

楠正成 ましてや、おまえはもう既に、齢10歳を超えた人間や。

楠正成 わしのこれから言い聞かせる事、一言でも耳の底に留めたんやったら、それを違える事は、絶対にならんぞ、えぇか!

楠正行 はい!

楠正成 今度の合戦、まさしく、天下分け目の戦いや。わしがこの世でお前の顔を見れるのも、今日が最後や・・・。

楠正行 ・・・。(涙)

楠正成 「楠正成、討死にす」との知らせを聞いたらな、「足利尊氏が天下を取ること、確実」と思え。そやけどな、「わが命助かりたい」というような空しい念にとらわれて、長年の天皇陛下への忠烈の心を捨てて足利サイドに投降、なんちゅう事は、絶対に、したらあかんぞ!(涙)

楠正行 (強くうなずく)・・・(涙)。

楠正成 わが一族、あるいは若党らのうち、一人でも生き残ったやつがおったらな、そいつらを従えて、金剛山(こんごうさん:大阪府と奈良県の境にあり)の麓(ふもと)に引きこもれ! 敵が寄せて来たら、命を養由(ようゆう:注3)の矢先に懸けて、紀信と(きしん:注4)忠心を競うんじゃ! それがわしへの一番の親孝行やぞ、分かったか!(涙)

楠正行 (うなずきながら)ううう・・・。(涙)

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(訳者注3)中国春秋時代の弓の名人。

(訳者注4)漢の高祖の忠臣。詳細については、2-10を参照。
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かくして、楠父子は櫻井宿を後に、東西へ分かれて行った。

中国春秋時代、百里奚(ひゃくりけい)は、主君の秦国・穆公(ぼくこう)が晋国に戦いを挑んだ時、自国側に戦いの利無き事を思い、その軍の将・孟明視(もうめいし)(注5)に対面して、今を限りの別離を悲しんだという。

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(訳者注5)孟明視は、百里奚の子である。
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今の世に、楠正成は、「敵軍、都の西方に接近す」と聞いた時より、「国家が滅亡すること必定」と愁い、息子・正行を後に留めて、自分の亡き後までも、義を重んずる道を彼に託したのであった。

かたや、異国の良弼(りょうひつ:注6)、かたや、我が朝の忠臣、数千年の時の隔たりを超えて、異なる時空間に期を一(いつ)にして出現した、希有の賢佐(けんさ:注7)二人・・・。

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(訳者注6)良臣。

(訳者注7)賢明なる補佐の臣。
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兵庫に到着した楠正成を迎えて、新田義貞は、

新田義貞 楠殿、今回の事、陛下はどのようにお考えなのかなぁ?

正成は、威儀を正して、自分の所感と天皇よりの命令を詳細に述べた。

新田義貞 まったくもう、楠殿の言う通りだよなぁ。戦に敗けた少ない兵力でもって、勢いに乗った敵の大軍に立ち向かってみても、とても勝ち目ねぇわ・・・それは、よく分かってる、分かってるよぉ。

楠正成 ・・・。

新田義貞 でもなぁ、去年、関東での戦に敗けて京都へ退却する時、おれは、途中で足利軍の前進を食い止める事ができなかったんだ。その時、世間の人からまぁ、なんと悪し様に、罵(ののし)らたかぁ・・・。

楠正成 ・・・。

新田義貞 今度もまた、中国地方制圧の大将を拝命したってぇのによぉ、数箇所ある城、たったの一つも落とせてねぇのに、「敵の大軍、襲来」ってぇんで、またまた京都へ遠路退却、なんてぇ事ではなぁ、あまりにも悲しすぎる、情けなさすぎる!

楠正成 うん・・・。

新田義貞 だからなぁ、今度こそは、勝敗を度外視して、ただこの一戦に、「義」の一文字書いてみようと思ってんだよぉ。

楠正成 あのね、史記(注8)の中に、こんな言葉ありまっせぇ、「愚かなやつらがガタガタ言うとんのん、聞いてるよりは、一人の賢者が唯々諾々(いいだくだく)と、うなずきながらも述べる意見に、耳を傾けてる方が、よっぽどえぇわい」。

新田義貞 ほぉ・・・。

楠正成 なぁーんもワケ分かっとらん連中らが、新田殿の事をゴチャゴチャぬかしよったかて、そんなもん、一切気にする必要ないやんけ! 戦うべき機を見て前進し、そうでないと知った時には退却する、そういうのをこそ、良き将軍と言うんやんか!

新田義貞 (ニッコリうなずく)

楠正成 かの孔子先生もなぁ、勇猛を自負する弟子の子路(しろ)を、戒めてはるでぇ、「「虎を素手で撃ち殺し、黄河を徒歩で渡ったるわい、死んでも悔いはないーっ」なーんちゅう事を言うてるような人間とは、私は、行動を共にしとぉないわなぁ」とねぇ。

新田義貞 うーん。

楠正成 だいたいがやね、元弘(げんこう)年間に、あの猛威を振るった鎌倉幕府権力の頂点・北条高時(ほうじょうたかとき)を、一瞬のうちに攻め倒し、またまた今年の春には、逆賊・足利をみごと九州へ追い落とした、その一番の功労者は、いったい誰やぁ?! たしかに陛下の御運も強かったという事もあったんやろうけどねぇ、結局のとこは、戦略、そうや、戦略! 何もかも、新田殿の優れた戦略あってこそやないかぁい!

新田義貞 (顔がほころぶ)

楠正成 そういうこっちゃねんからねぇ、新田殿の軍事面の采配について、誰もとやかく言うもんなんか、おりますかいなぁ! 今度の中国地方からの撤退、兵庫に留まりながらの朝廷への急報、何もかもが一つ一つ、戦の理に、かのぉとりますぞい!

新田義貞 正成殿、よくぞ、言ってくれたぁ! よぉし、今夜は、いっしょに、呑もう、呑もう!

楠正成 あい分かりましてそぉろぉ!

新田義貞 ハハハハハハ・・・。

楠正成 ワッハハハハ・・・。

これが、正成の最後の酒となった・・・あぁ、哀れなるかな。

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(訳者注8)中国後漢時代、司馬遷(しばせん)が著述した歴史書。「完璧」、「臥薪嘗胆」、「四面楚歌」、「背水の陣」等の言葉は、この書物の中に記述された逸話から生れた。
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