太平記 現代語訳 16-3 多々良浜の戦い
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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小弐妙慧(しょうにみょうえ)の居城が落城して、一族若党165人は全員一所で討たれてしまい、兵力が増大した菊池(きくち)軍は、多々良浜(たたらはま:福岡市・東区)に押し寄せていった。
足利尊氏(あしかがたかうじ)は、香椎宮(かしいぐう:福岡市・東区)の丘に登り、はるかかなたの菊池軍を遠望した。
足利尊氏 (内心)見たところ、菊池軍の兵力は4万騎から5万騎。それに対して、こちらは300騎ほど、そのうち半数程は、馬も無し、鎧も着けず、か・・・。
足利尊氏 こんなわずかな兵力でもって、あんな大軍に立ち向かうのは、いわば、大きな蟻が大木を揺り動かそうとするようなもの、カマキリが流れてくる車を止めようとするようなもの・・・。なまじっか戦なんかして、つまらない敵の手にかかって死ぬより、今ここで、腹を切ってしまった方がよっぽどましだなぁ。
それを聞いて、足利直義(あしかがただよし)は、兄を強く諌めていわく、
足利直義 兄上、何てぇ事を! 戦の勝負は必ずしも、兵力の多い少ないによって決まるもんじゃないでしょう!
足利尊氏 ・・・。
足利直義 過去の歴史の事例を振り返ってみてくださいよ。古代中国において、漢の高祖(こうそ)が、栄陽(えいよう)の包囲を破って脱出したときに、彼のもとにいたのは、たったの28騎。でもその後ついに、項羽(こうう)の百万の軍勢を倒して、天下を取った!
足利直義 わが国の最近の歴史にだって、同じような事例があるじゃないですか、ほら、あの、源頼朝(みなもとのよりとも)公。土肥(とひ)の杉山(神奈川県・足柄下郡・湯河原町)で戦に負けて、倒木の洞(うろ)の中に隠れた時、いっしょにいたのは、わずか7人。でも、頼朝公は平氏一門を滅ぼし、公の子孫は、将軍の位を継いでいった。
足利直義 28騎でもって百万騎の包囲から逃れたのも、7騎でもって倒木の下に隠れたのも、臆病ゆえに命を捨てれなかった、というのではない、天運が良き方向に転じる時を期待しての事だった。
足利直義 敵の兵力は膨大だけど、我々サイドの300余人は、皆ここまで、我々兄弟についてきてくれた者たちなんだ。これから先の我々の運命を、とことん見届ようと、覚悟かためた一騎当千の勇士たちだ。敵に背中を見せる者なんか、ただの一人もいやしない! この300騎が心を一つにすれば、必ず、敵を追い払える!
足利直義 兄上、早まって、自害なんかしないでくださいよ! まずは私が、敵に馳せ向かって、一戦してみますからね。
このように言って、直義は、香椎宮を出発した。
彼に従うは、仁木義長(にっきよしなが)、細川顕氏(ほそかわあきうじ)、高師重(こうのもろしげ)、大高重成(だいこうしげなり)、南宗継(みなみむねつぐ)、上杉重能(うえすぎしげよし)、畠山国清(はたけやまくにきよ)をはじめ、大友(おおとも)、嶋津(しまづ)、曽我(そが)、白石(しろいし)、八木岡(やぎおか)、饗場(あいば)ら、合計250騎。
3万余騎の相手に懸け合わさんと意気高く、自らの命を塵芥(じんかい)のごとく思うその心、まことにあっぱれである。
直義が旗を立てる準備をしながら社壇の前を通り過ぎていく時に、一つがいのカラスが、杉の葉を一枝くわえて飛んで来て、彼の兜の上へ、それを落とした。
直義は、馬から降りてその杉の葉を手にとり、
足利直義 おいおい、みんな見ろよ、これ! サイン(合図)だよ、サイン、香椎宮の神様からの・・・おまえら、助けてやっぞって、神様は、言ってくださってんだ。
直義は、社に向かって礼拝し、その杉の葉を鎧の左の袖に指して、戦場へ向かった。
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いよいよ両軍が接近し、まさにトキの声を上げようというその時、
大高重成 尊氏様の陣があまりに手薄なんで、心配になってきました。わし、ここから引き返して、尊氏様のお側をかためます。
重成は、このように言って、引き返していった。その後ろ姿を見ながら、直義は、
足利直義 まったくもう、あいつはぁ! 兄上の陣が手薄なんで、そちらをかためるだとぉ、よく言うよなぁ! そんならそうで、始めっから、兄上の側にとどまってりゃぁいいのに。敵の姿を見てから引き返しやがってぇ、まったくもう、なんて臆病なヤツなんだぁ!
足利直義 おぉい、大高、お前のその5尺6寸の太刀なぁ、5尺ほど切って捨てて、残りを、剃刀にでもしたらどうだぁ!
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菊池武敏(きくちたけとし)は、5,000余騎を率いて浜の西方から接近し、開戦の合図の鏑矢を放った。しかし、足利サイドは、矢の一本も射ずになりをひそめ、隙あらば切りかからんと機を窺っている。
その時、誰が射たのか分からない白羽の鏑矢が一本、菊池軍の頭上を超えていった。
鏑矢 シャキーーーーン・・・ヒュルヒュルヒュルヒュル・・・。
その矢はどこにも落ちずにそのまま飛び続けて、人々の視野から去っていった。
足利軍メンバーA おいおい、あれ見たかよ!
足利軍メンバーB 見ぃたともぉ!
足利軍メンバーC ありゃぁ、タダゴトじゃぁねぇよぉ、不思議な事もあるもんだなぁ。
足利軍メンバーD こっちサイドから敵サイドの方へ、飛んでったんだよなぁ、あの矢。
足利軍メンバーE これも、神様のご加護の徴(しるし)だぁ、たのもしいよなぁ!
足利軍メンバー全員 よぉし、やるぜぃ!
両軍対峙し、未だに戦端を開かずというまさにその時、菊池軍の中から一人の武士が、弾かれたように馬を駆ってとび出してきた。黄色がかった鬣(たてがみ)黒き白馬にまたがり、緋色の鎧を着ている。彼は、菊池軍の最前線より3町ほど隔たった地点まで、抜け駆けしてきた。
曽我左衛門(そがさえもん)、白石彦太郎(しろいしひこたろう)、八木岡五郎(やぎおかごろう)の三人は、馬も鎧も無い状態で足利軍最前線にいたが、その武士を見て奮い立った。
白石彦太郎 (内心)よぉし、あいつを馬から引きずり落としてやる!
彦太郎は、武士めがけて接近し、至近距離の位置に飛び込んだ。
武士は、太刀を捨て、脇差しを抜こうと体を反らせたが、バランスを崩して落馬してしまった。
彦太郎はすかさず、武士を押え込み、首を掻いた。そこに走り寄ってきた曽我左衛門は、武士が乗っていた馬に飛び乗り、八木岡五郎は、武士の身体から鎧を剥ぎ取り、自分の身体に装着した。
白石彦太郎の手柄によって、二人も、このように利を得ることができた。
その後すぐに、この三人は、菊池軍サイドへ突入。これを見た、仁木、細川他のメンバーらは、
足利軍リーダーF あの三人を、討たせてはいかぁん!
足利軍リーダーG みんな、ヤツラに続けぇ!
足利軍全員 オォォーッ!
足利軍は全員一斉に、菊池の大軍中に突撃を敢行、ここかしこに、乱戦が展開していく。
仁木義長は、接近してきた菊池サイドの武士5騎を切って落とし、6騎に負傷を負わせ、なおも敵中に踏みとどまり、反り返ってしまった太刀を足で踏んで伸ばして、また敵と切りあい、命ある限りと、戦い続ける。
かくのごとく、足利軍150騎は勇猛果敢、次々と菊池サイドの堅陣を破っていく。相手に百倍するほどの兵力を擁する菊池軍であったが、小勢の足利軍にこのように懸け立てられて、前線の3,000余騎は、多々良浜の干潟上を20余町までも退却した。
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カラメ手方面に回った菊池サイドの松浦(まつら)・神田(こうだ)勢は、わずか300騎にも満たない尊氏の近くにいる足利軍を見て、それを大軍であると、錯覚してしまった。
松浦・神田勢リーダーH (内心)こりゃぁ、いかんばい。足利サイドの兵力、2万、いや、3万は、あるとね。
松浦・神田勢リーダーI (磯を打つ波の音を耳にして)(内心)あれはきっと、足利軍のトキの声ぞね。あの声のスゴサから察するに、あちらはえらい大軍だわね。
彼らは急におじけづいてしまい、一戦もせずに、旗を巻き兜を脱いで、足利側に降伏してしまった。
これを見た菊池は、
菊池武敏 (内心)うーん、こりゃぁ、非常にまずかぁ状態になってしもぉたばい。足利側の兵力が大きいならんうちに、退却した方がよか。
ということで、菊池軍は急遽、本拠地の肥後(ひご:熊本県)に退却した。
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尊氏はすぐに、一色道献(いっしきどうけん)と仁木義長を肥後に送り込み、菊池側の城を攻めさせた。城は一日も持ちこたえず、菊池軍は、深山の奥に逃げこもった。
次に、肥後の八代城(やつしろじょう:熊本県・八代市)を攻め、そこを守っていた内河彦三郎(うちかわひこさぶろう)を追い落とした。
さらに、多々良浜合戦で重傷を負った阿蘇大宮司・惟直(あそのだいぐうじこれなお)は、肥前国(ひぜんこく:佐賀県+長崎県)小杵山(おつきやま:佐賀県・唐津市)で自害し、その弟・九郎は、不案内な里で道に迷い、在所の農夫に生け捕りにされてしまった。
秋月備前守(あきづきびぜんのかみ)は、太宰府(だざいふ: 福岡県・太宰府市)まで落ちのびたが、一族20余人皆、そこで討たれてしまった。
これらはみな、一軍を率いる大将の地位にあった人々であり、九州地方における足利軍の強敵と成りうる存在であった。しかし、天運はついに彼らには味方せず、このように皆、滅んでしまい、これより後、九国二島(注1)の武士たちは悉く、足利尊氏の命に服するようになった。
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(訳者注1)当時の行政区分によるならば、九州地方には11か国があった事になる。すなわち、[九国:筑前(ちくぜん)、筑後(ちくご)、豊前(ぶぜん)、豊後(ぶんご)、日向(ひゅうが)、大隅(おおすみ)、薩摩(さつま)、肥後(ひご)、肥前(ひぜん)]と[二島:壱岐(いき)、対馬(つしま)]。
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この足利サイドの、奇跡的なリカバリーの原因はいったい何か?
それは、菊池武敏が不覚を取ったからではない、足利直義の作戦のよろしきにあったのでもない。ようは、足利尊氏の前世において、後に彼を天下の主の地位に押し上げるような善因(ぜんいん)が、蓄積されていたからである。
その良き因の果が現れる時がついに到来し、霊神が擁護の威力を彼に加え給うたがゆえに、思いがけない勝利を手中にし、一時のうちに九州全域が、尊氏に靡くこととなったのである。
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大敵と目されていた松浦・神田の者たちが小勢の足利軍を大軍と錯覚し、降伏してきたとの知らせを聞いて、尊氏は、高、上杉家の人々に向かっていわく、
足利尊氏 うまい事を言って、その裏では、相手の破滅を願い、笑顔の奥に、刀を研ぎ澄ます・・・最近の人間の心って、そんなもんだろぉ。
足利軍リーダー一同 ・・・。
足利尊氏 それが証拠に、見てみろよ、小弐のあの最期を・・・。あそこの一族は長年、小弐妙慧(しょうにみょうえ)の恩顧を受けてきた人たちなんだよ、でもあのように、妙慧を裏切って、討ってしまったじゃないか・・・。
足利尊氏 松浦・神田の連中らだって、どんな野心を含んで、一戦もせずに降伏してきたのか・・・。
足利尊氏 誠をこめて信心を捧げたので、神仏が不思議な力を現して下さって、このような事になった、とも、考えられるんだけど・・・いやいや、どうにも、あの連中らの、「小勢を大軍に錯覚した」との言い分・・・やっぱり、怪しいよなぁ・・・。
足利尊氏 いいか、お前たち、あいつらには用心しろよ。心を許しちゃいかんぞ。
足利軍リーダー一同 ・・・。
遥か末座に座していた高師茂(こうのもろしげ)が、進み出ていわく、
高師茂 まことに、殿のお言葉の通り、人の心の測り難きは、天よりも高く、地よりも厚し・・・とは言いながらも、現在のような、重大な局面においては、あまりに人の心を疑かってばかりでは、速やかな成功を得るのは、難しいのではないかと、思うのですが・・・。
足利尊氏 ・・・。
高師茂 彼らが我が軍を大軍と錯覚したのも、それほど不審な事ではありません。歴史上にも、そのような例がございますよ。
高師茂 昔、中国・唐王朝の時代のことです。玄宗皇帝(げんそうこうてい)の左将軍・哥舒翰(かじょかん)は、逆臣・安禄山(あんろくざん)の部下の崔乾祐(さいけんゆう)と、潼関(とうかん)で、戦いました。その時、黄色の旗を差した兵10万余騎が皇帝軍中に忽然と現われ、これを見た崔乾祐は、「敵は大勢なり」と思って、兵を引いて四方に逃散しました。
高師茂 後日、戦勝のお礼を申し上げるために、皇帝勅使が宗廟(注2)に参りましたところ、石人、これは廟に並べてある石製の人形なんですけどね、その両足が泥に汚れ、体中に矢が突き刺さってたんです。そこで、「さては、あの黄色の旗を掲げた兵10万余は、宗廟の神が皇帝軍の兵士と化して、逆徒を退け給うたのであったのか」と、みんな、納得したって言うんです。
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(訳者注2)祖先の御霊を祭る場所。
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高師茂 我が国にだって、同じような例がありますよ。天武天皇(てんむてんのう)と大友皇子(おおとものみこ)とが天下を争われた時(注3)の事。備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)の二萬郷(にまのさと:岡山県・倉敷市)という所で、戦が行われました。その時、天武天皇側はわずか300余騎、大友皇子側は1万余騎。このような兵力差では、戦ってみても勝敗は始めから決しているようなもの。ところがところが、いったいどこからやってきたのか、爽やかなる兵2万余騎が出現、天武天皇側について戦いまして、大友皇子の軍勢を十方へ懸け散らしました。それ以来、その地を、「二萬里(にまのさと)」と呼ぶようになったんです。
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(訳者注3)いわゆる「壬申の乱」。
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高師茂 周防の内侍(すおうのないし:注4)の歌、
君が代(きみがよ)は 二萬(にま)の里人(さとびと) 二万人 貢(みつぎ)の献上(けんじょう) 絶やす事なく
(原文)君が代は 二萬の里人 数副(かずそ)えて 絶えず備(そなう)る 御貢物哉(みつきものかな)
は、このような、その土地の歴史を意識してのものなんですよ。
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(訳者注4)平安時代の歌人。
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このように、高師茂は、中国と日本の過去の事例を引いて、尊氏の武運が天の意に叶っているからこそ、松浦・神田の者らの錯覚が起ったのである、と説明したので、尊氏はじめ、そこにいた人々は皆、歓喜の笑みを浮かべた。
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