太平記 現代語訳 11-2 後醍醐先帝、京都への帰還を決意
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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一方、京都の方はどうなっていたかというと・・・
5月12日、千種忠顕(ちぐさただあき)、足利高氏(あしかがたかうじ)、赤松円心(あかまつえんしん)らは、船上山にいる後醍醐先帝のもとに次々と早馬を送って、六波羅庁陥落の情報を伝えた。
これを受けて、船上山の御座所ではさっそく、今後の方策についての公家たちの会議を開催、その議題は、直ちに京都へ帰還するべきかどうか。
藤原光守(ふじわらのみつもり) 六波羅庁の両長官すでに死すとはいえ、千剣破城(ちはやじょう)攻めの敵軍がなおも、近畿地方には充満しとりますからな、京都は、まだまだ危のぉす。
藤原光守 シモジモのモンらの諺(ことわざ)にもありまっせ、「関東八か国の軍勢を以ってして、日本全国の軍勢に十分対抗できる、鎌倉中の軍勢だけを以ってして、関東八か国の軍勢に対抗できる」と。その証拠に、かつての承久の乱の時、後鳥羽上皇陛下の軍勢は、緒戦段階で、伊賀光季(いがみつすえ)だけは簡単にやっつけてしまいましたけど、その後があきませんでした。関東から再度派遣された大軍に、朝廷軍は敗北、それ以来、天下は武家のもんになってしもうたんですやん。
藤原光守 今回の一戦の結果を評価しまするに、10のうちのわずか1ないしは2を、我々サイドはようやく獲得しえた、というぐらいのもんでしょう。こんなもんでは、まだまだあきまへん。
藤原光守 「君子は罪人に近寄らず、恨みのあまり、何されるか分からへんから」とも言いますからね、今しばらくは、ご座所をここから他へご移動されずに、諸国の武士どもへ北条打倒の天皇命令書を送られて、関東の情勢の変化をじっと見ていくのんが、よろしおす。
公卿たち なるほど、それもそうやわなぁ。
後醍醐先帝 うーん・・・そうは言うてもやなぁ・・・うーん・・・。
そこで先帝は、自ら易占を行い、京都帰還の吉凶を筮竹(ぜいちく)で判断してみようと思われた。その占いの結果、以下のごとし。
戦 正義あるべき
知徳兼ね備えた者 将軍に任命 吉にして間違い無し
上六 大君 命を有(たも)ち 国を開いて、家を承(う)く
小人 用いる勿(なか)れ
王弼(おうひつ)による注釈:
戦がその極みに至った時は 戦の終わりなのである
大君の命あって 功を失わない
国を開き家を承けるとは 国家を安寧に導く事を言う
小人用いる勿れ それは道理に反しているから
後醍醐先帝 自ら占っての結果は、かくのごとし。この上、いったいナニを疑えっちゅうねん! わし、京都、帰るで!
公卿たち ハハーッ!
というわけで、同月23日、先帝は、伯耆国(ほうきこく:鳥取県西部)の船上山をご出発、山陰道を東方へ、御輿を進めさせられた。
道中の行列の装いは、通例のそれとはうって変わり、衣冠姿にてお供するのは、一条行房(いちじょうゆきふさ)と藤原光守の2人だけ、他の公卿・殿上人や諸官庁の次官たちはみな、甲冑を帯して陛下の前後に騎乗していく。これを守る全軍はことごとく、甲冑を着して弓矢を背負い、前後30余里にわたって展開する。
塩冶高貞(えんやたかさだ)は、1,000余騎にて1日早く先発して、前陣の役を務めた。また、朝山太郎(あさやまたろう)は、1日出発を遅らせて、500余騎にて後陣をかためた。金持大和守(かなじやまとのかみ)は、錦の御旗をひるがえして陛下の左を進み、名和長年(なわながとし)は、帯剣の役(注1)で右に控える。
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(訳者注1)剣を帯びて君主の側に侍り、護衛する役
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雨の神が道を清め、風の神が塵を払う。紫微星(しびせい)、北極星を周囲の星々が囲むごとく、厳重な守りの中に、京都への道を行く先帝の感慨は深い。
御醍醐先帝 隠岐島へ護送されてったんは、去年の春の事やったんやなぁ。あの道中、ともすると苦悩のあまり、山雲海月、見るものことごとく涙を催したんやったが・・・今日のこの道筋の風景、何を見ても、心中にふつふつと喜びが湧き上がってくるやないか。
松の梢を吹きわたる風の音も、万歳を叫んでいるかのように聞こえ、海水を煮る塩作りの民の煙を見ても、これから国が正しく治まっていく前兆(注2)のように、感じられるのであった。
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(訳者注2)原文では、「塩焼く浦の煙まで、にぎわう民の竈(かまど)と成る。」
「民の竈」は、[古事記]、[日本書紀]の中の、仁徳天皇(にんとくてんのう)の減税の話からの連想で記されたものであろう。
[古事記]には、下記のような趣旨の事が書かれている。
ある日、仁徳天皇は、自らが治める地を展望した。
見ると、食事の煮炊きをする煙が、どこからも立ち昇っていない。その事から、天皇は、民が貧しい生活を強いられている事を察知し、3年間・100%の減税を決意した。
当然の事ながら、国家の歳入は激減。宮殿の修理もままならず、至る所で雨漏りが発生。
しかし、天皇は宮殿の修理を行わせなかった。雨漏りする箇所には器を置いて雨水を受け、雨漏りがしない所に移動して、生活した。
その後、再び、治める地を展望してみたら、炊煙が満ちていた。
民が豊かになった事を知った天皇は、もうよかろうという事で、徴税を再開した。
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