太平記 現代語訳 14-8 後醍醐天皇、延暦寺を頼って、坂本へ避難

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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「山崎と大渡の防衛ライン、崩壊す」、との情報に、京都中の誰もかもが、突然の異変に遭遇したように、あわてふためき、倒れ迷う。車馬は東西に馳せ違い、蔵の中から物や財宝が、あちらこちらへ運び出されていく。

後醍醐天皇 どないなっとんねん! ここは、大丈夫なんか?!

天皇側近A いえ、あぶのぉおす。

天皇側近B このまま、ここにいたんでは、あきまへんわ。陛下、速やかに、延暦寺へご避難を!

後醍醐天皇 義貞(よしさだ)は、どないした! 義助(よしすけ)は!

天皇側近A おそらく、ここへ向こぉてるんやろうとは思いますが、まだ来とりません、二人とも!

天皇側近B 二人が来てからでは、遅すぎます。避難、今のうちに!

後醍醐天皇 よし!

後醍醐天皇は、三種の神器を持って、輿(こし)に乗り込んだ。しかし、輿をかつぐ担当の者が一人も見当たらない。仕方なく、御所の四方の門の警備を担当していた武士たちが、鎧を着ながら徒歩で輿を担いでいった。

その後、吉田定房(よしださだふさ)が、車を飛ばして御所にやってきた。

御所の中をあちらこちら見てまわり、定房は、

吉田定房 (内心)陛下のお側のもん(者)ら、よっぽどあわてて、出ていきよったんやろなぁ。明星(みょうじょう)、日の札(ひのふだ)、二間の御本尊(ふたまのごほんぞん:注1)、みな、放置されたままやんかぁ。

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(訳者注1)清涼殿東庇の間に安置の仏像。
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定房は、それらの貴重な品々を使用人たちに持たせて、延暦寺へ向かった。

しかし、なぜか、最高レベルの貴重品、すなわち、玄象琵琶(げんじょうびわ)、牧馬琵琶(ぼくばびわ)、達磨大師(だるまだいし)の袈裟(けさ)、ビシュカツマ神製作の五大明王(ごだいみょうおう)像を、御所に残したまま、行ってしまった・・・残念なことである。

衣冠を正して天皇のお供をする公卿、殿上人は3、4人のみ、その他のメンバーはすべて、御所の警備担当の者ばかり。彼らは全員甲冑を帯し、弓矢を装着し、陛下の前後を護衛する。

この2、3年間、天下一統の中に、朝廷の恩寵を誇る公卿・殿上人らが、さしたる事もないのに、武具をたしなみ、弓馬を好み、朝廷の儀式も道に違(たが)い、礼儀作法が規範を背くものになっていたのも、早晩このような大変事が起こることの前兆であったのかと、今になってようやく、思い知られる。

新田義貞(にったよしさだ)、脇屋義助(わきやよしすけ)、江田(えだ)、大館(おおたち)、堀口(ほりぐち)、里見(さとみ)、大井田(おおいだ)、田中(たなか)、籠澤(こもりざわ)以下の新田一族30余人、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)、仁科(にしな)、高梨(たかなし)、菊池(きくち)他、新田氏以外の有力武士80余人は、わずか20,000余騎を率いて、天皇の後方を守りながら、東坂本(ひがしさかもと:滋賀県・大津市)へ馬を急がせた。

その騒然たる様は、中国唐王朝の時に、潼関(とうかん)で安禄山(あんろくざん)軍に皇帝軍が敗退した後、首都を脱出して蜀(しょく)地方へ向かった玄宗(げんそう)皇帝に随行する近衛軍が、剣閣(けんかく)の雲中に迷った様もかくや、というべきであろうか。

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ここに、信濃国(しなのこく:長野県)の住人・勅使川原丹三郎(てしがわらたんざぶろう)という人がいた。

彼は、新田陣営に属し、大渡防衛ラインの担当メンバーであったのだが、「宇治も山崎も、防衛ライン総崩れ、陛下はすでに、いずこともなく東の方を目指して御所を脱出!」との情報を聞き、

勅使川原丹三郎 君主が危機に瀕してる時に、自らの命を投げ出して忠義に尽くすのが、臣下の義ってもんだろ。いったいどのツラ(顔)下げて、逆臣・足利の下に行けるって、いうんだぁ!

勅使川原・父子3人は、三条川原から引き返し、鳥羽造道(とばつくりみち:京都市・伏見区)、羅城門(らじょうもん:京都市・南区)の付近で、腹を切って死んだ。

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