本当の「平等」とは?
戦前戦時中は、立場が上の人や組織の言うことが絶対で、上に立たない人は、疑わずに従う事が美徳とされていました。
もちろん、家庭の中でも家長の権限が絶対で、逆らわないことが当たり前でした。逆らおうものなら、追い出されたり暴力を振るわれたりしていたようです。
私は昭和終わり頃の生まれですが、同居の祖父母や父、叔父に逆らった時には、怒られたりゲンコツをもらったりしていました😅
まだまだ家長制が残る中、学校では「男女平等、自分の意見は主張して良い」と学んでいたので、本当におかしいと思うことは主張しましたが、基本、年長者を立てるのが当たり前でした。
学生時代は、先生や先輩のアドバイスをを聞いて、能力を伸ばしていきました。
自分が先輩になれば、後輩に指示を出せるだけの能力が身に付いているので、後輩の面倒をみるのが当たり前でした。
社会人になってからは、上司や先輩のアドバイスを聞き、迷惑をかけないレベルになるために、休み返上で仕事をし(嫌々ではなく、できるようになることが楽しくて、子どもができるようになることが嬉しくてやっていた)、自分が教わったことを後輩に教えてきました。
そんな中生きてきたので、近年の風潮には思うところがあります。
全ての人が平等で、自分の考えを自由に表現できる社会は、一見すると素晴らしい社会です。
しかし、私の見聞きする範囲では、「平等」の意味が取り違えられているとしか思えないことが多々あります。
~担任と児童が平等~
今、私が関わっている「崩壊クラス」を見ても、そう思います。
子どもが、大人(2年目の担任)に「たてつく」のです。
ここで言う「たてつく」とは、
「意見を言う」のではなく、自分の好き嫌いの物差しで文句を言ったり、難癖つけたりすることです。
例えば、担任が決めた席替えで、
「○○達は仲良しで近い席だから、僕は△△さんと近くにして」と言いはる。
日頃、好き勝手な言動をしておいて、リーダーになれないと、
「先生は僕を粗末に扱う❗」と不機嫌になったり、泣いたりする。
それを親に訴え、親が出てくる。
給食準備中に、子どもの方から、作業をしている担任に「先生も配って下さい。」と言う。
担任も、同じ目線に立ちすぎ、
きちんと理由がある予定変更でも、必要以上に謝る。
結果、「変更した担任が悪い」になるので文句が出る。 などなど。
きちんと「立場の上下」があれば、何の問題も起こらないことが、
立場の上下=身分の上下
と勘違いしている担任の、「気を遣いすぎる▪譲りすぎる言動」により、「自分の都合にあわせて文句を言っていい、文句を言えば担任が折れる環境」を作っているのです。
「立場の上下」を、言葉でも態度でも伝え、ダメなものは絶対に譲らない私には、子ども達は文句は言いません。
納得しないときには、「質問」という形で表してきます。
また、子ども達に指示を聞かせるだけの仕事や対応(時にはふざけたりもする)をするので、怖くて寄り付かない訳でもありません。
~先輩と後輩が平等~
別の事例では、新卒新採に改善点をアドバイスしたところ
「○○は、やってます」「基本も大事だけど、1年目だからこそ、自分なりにチャレンジします」「メンタルが保証されない現状、休みはとります(メンタルを病むほどの仕事はしていない)」「指導要領に~と書いてあるから、△△してます(自分の都合のいいように解釈し、仕事を減らす理由にしているように思える)」などと返してくるのです。
教育実習はオンラインで、学んだのは、ほば理論のみ。経験ゼロ。なのに「できている」と言い張るのです👀
正直、授業準備は不十分で、何なら行き当たりばったりの時もあります。
支援学級(情緒)を理由に、子どもがやるほど(やりたくないといじけたら、それ以上させきらない)しかさせません。
常に早目に授業が終わり、習熟ではなく自由時間にしています。
子どもが、自分の言うことを聞かない▪理解できないと、「早くして❗」や同じ指示を冷たく繰り返すばかりで、子どもは泣きそうになるか、いじけてしまいます。
これでは、本人の技術向上は期待できないし、子どもも成長できないし、周りからの協力も期待できなくなるでしょう。
先輩に絶対服従という訳ではありませんが、どんな仕事にも「基本」はあります。
それを「やらない❗」と言い切り、自分なりにやって「できている」と、誤った認識をしているのです。
まさに、「平等」を履き違えて育ってきた結果です。
もちろん、担任▪上司や先輩は、
「従う▪アドバイスを聞く価値のある人物」
であるべきなので、児童▪後輩より能力を高めたり、責任をとったりできる努力が必要です。その意味では、「不平等」です。
だから、児童▪後輩は、納得しきれなくても、経験に裏打ちされた担任▪上司や先輩の指示に従ったり、アドバイスを受け入れたりすることが必要です。
これもまた、「不平等」です。
でも、それが、学校や会社や社会がうまくまわる方法ではないでしょうか?
「個別最適=みんなが平等な意識(自分のやれるほどを自分で決める)で取り組める」も、周りに迷惑をかけない能力をつけてからでなくては、ただの「自分勝手で怠惰な言動」になります。
そうすると、自分だけ我慢するのは馬鹿らしくなり、みんなが好き勝手なことを始め、思いやりのない社会になってしまうのではないでしょうか?
もちろん、これは学級でも言えることです。
「個人」を大切にしすぎると、みんなが自己中心的で妥協できない人になり、結果、「自分以外を大切にしない」世の中になります。
既に、そういう人が増えています。
「過ぎたるは、及ばざるがごとし」
ですね❗