草を編む男 上

 彼は草を編んでいる。かれこれ5年の間ひたすら編み続けている。
彼が言うには、7年間一つの所業に励み続ければ、8年目からは薔薇色の人生が待っているのだそうだ。彼は食事も寝る間も惜しんでイラクサを編んでいる。「白鳥の王子」という童話があったっけ、と思ったけれど口には出さなかった。彼は信じている。この7年、どれだけ草編みに励んだかを『彼(か)の人』が見ていてくれていると。だからあと2年の間はより一層精を出すのだそうだ。編み方にムラが出ないように、すべての工程を丁寧に行うよう気を付けているらしい。
 彼の家は汚い。7年間ビスケットと水しか口にしていないというのに、台所とおぼしき場所に大量の皿やカトラリーが汚れたまま置いてあるのは、あれは7年ものあいだ放置されているのだろうか。部屋は異臭がするが、彼はまったく気にならないそうだ。平気な顔をして一日中、同じ場所に座って草を編み続けている。
 『彼の人』とはなんなのか彼に聞いてみたことがある。この草の布を捧げる人さ、と彼は恥ずかしそうに笑いながらも、手の動きは休めない。最初は神のようなものかと思っていたが、最近になって誰か具体的な人物のことを言っているような気がしてきた。『彼の人』は彼にビスケットを定期的に支給してくれるらしい。なにか宗教めいた団体の下っ端のような予感もするが、彼は『彼の人』自体についてはあまり興味がないようだった。一方で、『彼の人』が2年後に与えてくれるという薔薇色の人生については非常に食いつきがよかった。彼の口ぶりでは、『彼の人』はあくまで、具体的な手法によって人生を薔薇色に導いてくれるわけではないようだった。やはり宗教的な信者勧誘だと思う。しかし彼はそんなことはどうでもいい様子だった。まぁ、勧誘のカモになる人間の典型だ。こうして私がマスクをして無言で向かいに座っている間も必死に手を動かしている。むしろ私の存在が邪魔だとでもいうように血眼で草と向き合っている。まだ編んでいないイラクサの繊維が彼の椅子のすぐ脇に積まれており、夕刻の日を受けて柔らかな象牙色を照り返している。
 彼が5年かけて編み上げたイラクサ布はかなりの面積に達していた。おそらく『彼の人』を名乗る宗教団体の者が2年後に回収にきて、それから彼を…彼をどうするのだろう。なんにせよ、8年分のビスケット(海外の輸入品であまり見ないパッケージだ。値段の相場はわからない。)の代金だけでこれだけ丁寧な品を手に入れられるのだからいい商売だ。本当に商売をしているのかはわからない。本当に宗教団体ならば祭壇かなにかに掛けて使うのかもしれない。それにしても一体薔薇色の人生というのはどんな形で彼に与えられるのだろうか。私はそこに非常に興味がある。
 彼とはそこまで長い知り合いじゃないが、最近『La Vie En Rose(ラヴィアンローズ)』という会社に勤めている人間と話す機会があり、おもしろい男がいるというので教えてもらったのだ。今思えば、彼が『彼の人』なのだろう。名前を聞いたような気がするが忘れた。いかにもな勤務先の名からも彼の「おもしろい男」という若干見下したような軽い口ぶりからも、間違いないと思われる。一体どういう流れで草を編む男の話になったのかは忘れてしまったが、たぶん、ただの酒の肴として軽く話題を振っただけなのだろう。

 ラヴィアンローズの男は私の店の客だった。結局一度来たきりでその後会ってないが、私の店に来る前に2,3軒は寄っただろうという酔い方をしていた。私の店は小さくて、常連のお情けがなければ生活できない有様だが、ぱっと見の印象で気の合わなそうな一見さんは基本入店を断るようにしている。見るからにガラガラの席をわざと視界に入れさせてから、すみませんが今日は満席で…とバーカウンターをゆったりと回り込み、感じよく静かに扉を閉める。相手に圧倒的な余裕を感じれば、その場で怒りだしたり騒ぐ人は少ない。
 しかしラヴィアンローズの男の入店を私は受け入れた。なんとなくだ。特に積極的な決め手はなかった。強いて言えば、「客として従順そうだ」と思った。彼は既に千鳥足で、半分以上眠りこけているような印象を受けた。なんとか聞き取った言葉が、水を、だったので、他になにか、と注文を促した。このやり取りはあまり好きじゃない。コーラを、というのでなんとなく辛めのジンジャーエールを出しておいた。男は全く気付かずに飲み干して、その場の全員が聞き取れるくらいの音量でげっぷをした。店に入れなければよかった、掃除が面倒くさい、と思いつつ、彼のそばにバケツを置くつもりで私は煙草の火を消し、体を厄介な客の方に向けた。
 「なぁ、あんた」突然大きな声を出されたものだから一瞬身を引いてしまった。他の客の視線も気になったので、すぐに平静を取り直す。私の返事を待たずに男は語りを続けた。「薔薇ってぇのは、何色をしている?本物を見たことがあるか?俺はないね。道端の野ばらなら偶に見かけるが、流行りの歌に歌われるような薔薇ってぇのは、もっと高貴な花なんだろう?野ばらなんちゃぁちょっとしっかりしたコスモスくらいなもんに思えるし、どちらかというと親しみやすいが、まぁゲーテも詩に書いてるくらいだから、印象に残る花っちゃぁそうさな。あぁ~。さっきのコーラをもう一杯くれ。酒やコーラに活けてやったら、花も酔ったりげっぷをしたり、人間味が生まれるんじゃないのか?いっつも綺麗~なむず(水)を毎日替えてやってさ。そんな扱いをするから間違えるのさ。なぁ、俺にもむず(水)を一杯。」
 騒がしい客は嫌いだったが、泥酔しているにしてはまとまった話をする男だと思った。私は今度は正真正銘のコーラを出した。ひとりの客が帰っていった。会計をしていて途中はよく聞こえなかったが、カウンター席の前に戻るついでに氷をグラスに取り、水を入れて差し出した。
 「俺はこう見えて一流の営業でな。今日も何十件と契約を取り付けてきた帰りさ」男は煙草はあるか、と私に聞いた。釣りと共に渡すと男はライターを貸してくれ、と言ってきた。深く一服してから、男はさっきよりも落ち着いた口調で朗々と語り始めた。
「ラヴィアンローズって会社知ってるか。いやぁ知るわけがない。あんたなんか絶対に縁がないとこだよ。なにかと秘匿事項は多いが、働いた分はしっかり手元に返ってくる。それでな、俺は、人を集める仕事をしている。」ここで一息置いて、男はコーラに口を付けた。あぁ、美味いねぇと呟いて一服してからまた、美味いねぇと言った。他の客はほとんどいないので、私は手持無沙汰だった。洗い物も終えてしまってほかにやることがない。私は男に貸したライターを黙って取り、一服し、男に話の続きを軽く促した。
「簡単なもんじゃねぇぜ。人を魅了させなきゃならない。言っとくが俺にじゃねぇぞ。俺の持ち込む話にさ。なるべく無我夢中にさせて、喉から手が出るくらい欲しいと思わせる。そのためならどんな犠牲を払ってもいいと相手の口から言わしめたんなら、こっちの勝ちだ。そして必死こいて頑張らせる。まぁ、人に話せる内容はこんなもんだ。断わっとくがこれは詐欺じゃぁねぇ。あくまで俺はお馬さんの目の前に人参をぶら下げてやっただけさ。食いつけ!なんてまったく急かしちゃいない。そいつが自分で食いついてきただけなのさ。無自覚かもしれんがな。」
 残った客はこの男だけになった。私は電卓を棚にしまうと、自分用にモヒートを作って飲んだ。俺にも一杯、と言われたので彼の分も作って出した。

童は折りぬ 荒野のばら
野ばらは刺せど 嘆きと仇(あだ)に
手折られけり ばら ばら 紅き
荒野のばら

聞いたことがある気がする、と言うと、男はハッハと乾いた笑いで応じた。
「ゲーテの詩さ。有名だからな。シューベルトもこれで歌を書いてる。そういえばあんた、名前は。」男の酔いは確実に醒めてきていた。印象よりインテリだな、と思いながら私は名前を伝えた。
「そういや、俺が初めて契約取り付けた客の名もそんな名前だった。ずっと忘れてたが、これも何かの縁かもしれんな。初めてだから無茶苦茶な営業したもんだよ。おかげでやり方を掴めたけどな。けど相当ハードな人参ぶら下げちまって、あとで報告書書いて上に報告したら、結果は良いにせよ、もっとやり方考えろとは言われたね。ま、それでも初営業で行った先で契約取るなんて、そんな幸運なやつは同期じゃ俺くらいだったから、随分と出世の役に立った。もうあれから5年か。早いような、遅いような…」男はモヒートのグラスを愛おしそうに眺めながら、ライムを沈めては浮かせていた。店の切れかけた電球の芯が時折集中を逸らしてくるので、そこだけスイッチを切った。店の一隅に唐突な薄闇が生まれる。
 男はカクテルやコーラばかり注文しながら、結局朝まで居座り、早朝に少し多めにチャージを払って帰っていった。

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