先回りの自己否定
私はもしかしたら、嫌われているかもしれない。
私があの子に話そうと思っていることはもしかしたら、あの子に否定されるかもしれない。
決してネガティブな意味ではなく、自分にとってなにか不都合なことが起こることを予想しておく癖が、小さい頃からあった。
嫌われてたらどうしよう、と不安になるわけではなかったが、嫌われていたら悲しいから先に自分で自分を嫌っておこう、という思考が染みついている。
否定されることを想定してあらかじめ何パターンか返しを用意しておく、ということもよくしている。
その結果、常に先回りして自己否定をするようになった。他者からのネガティブな言葉が自分にクリティカルヒットするのを避けるために、まずは自分で自分を軽く叩いておく。そうすれば、他者の言葉に期待をしすぎることもなく、他者の言葉に必要以上に傷つくこともなく、他者を嫌うこともなく、結果他者に嫌われなくなると思っていた。
たしかに、私は今あまり人から嫌われていない(と思う)。親友いわく、「私はラマのことが嫌いな人を知らないし、ラマに嫌われている人も知らない。」
親友の言葉が全てとは言わないにしても、幼い頃自分を抑えた成果というか代償というか、ともかく何かしらの結果がここには現れているの思うのだ。
それが自分にとってよかったとかわるかったとか言うつもりはないし、言えないし、自分にはこれしかなかったのだし、得たものもあれば失ったものもある。
ただ、その自己否定が尾を引いて今の私にまで影響を与えているというのは、少しやりすぎてしまったかなと反省している。
自分を無理に肯定するなんてのはできないし、否定しなくてはいけない部分があることを肝に銘じながらも、もうすこし私は人を疑うことを忘れてもいいのかもしれない。人を嫌ったり人に嫌われたりしてもいいのかもしれない。
否定されたって自分の価値が下がるわけではないということに、気づけなかったのだ。
今ようやくそれに気づくことができて、傷つかないように先回りをするのではなく、傷つく覚悟をもって相手や自分と向き合い、傷ついたときには自分をちゃんと癒せるような、そんな人でいたいから、自己否定という武器を手放して丸腰で体当たりする方式をとってみようと思う。
これが正しいのか正しくないのか、はたまたそんなものに正しいも正しくないもないのかということは知る由もないけれど、まあとりあえずやってみるしかない。