現代版・徒然草【49】(第52段・聞かぬは恥)

今日は、「疑問に思ったら誰かに聞いてみよう」とか「思い込みは危険だ」とかいう教訓に似たようなものであるが、有名な52段を紹介しよう。

「仁和寺にある法師」の失敗談であり、現代でもそういう人がいるが、思わずツッコミたくなる。

では、原文を読んでみよう。

①仁和寺にある法師、年寄るまで石清水を拝まざりければ、心うく覚えて、ある時思ひ立ちて、たゞひとり、徒歩(かち)より詣でけり。
②極楽寺・高良(こうら)などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。
③さて、かたへの人にあひて、「年比(としごろ)思ひつること、果し侍りぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず」とぞ言ひける。
④少しのことにも、先達(せんだち)はあらまほしき事なり。

以上である。

これは、仁和寺の法師が、京都の石清水八幡宮を訪れたいと思って実際に出かけたのだが、実は、全然訪れていなかったというお話である。

今の時代は、石清水八幡宮は、京阪電車の「石清水八幡宮駅」で下車してから、参道ケーブルで3分ほど山上まで上って参拝する。

昔は、電車やケーブルカーなどあるわけがなく、山登りに行くようなものだった。

①の文は、年を取ってもまだ行けていなかったことを情けなく感じて、仁和寺の法師が石清水八幡宮に行ったと書いてある。

②の文では、極楽寺や高良神社を拝んで、これで終わりと思って帰ってしまったと書いている。

高良神社は、現代でも、石清水八幡宮の参道の途中にある。

そして、③の文であるが、同僚の人に会って、「長年思っていたことを実現できました。聞いていた以上に尊い所でした。それにしても、私と同じように参拝していた人が皆、山上まで登っていたのは何かあったのでしょうか。気にはなりましたが、神様に参拝することが本来の目的だったので、山までは見に行きませんでした。」と言ったわけである。

④で締めくくられているとおり、兼好法師は、「こんなことでも教えられないと分からないのか」と皮肉っている。

分からないことは、ちゃんと人に聞きましょう。



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