20世紀の歴史と文学(1950年)
今日は、6月25日である。
それがどうした?と思った人もいることだろう。
実は、74年前の今日が、朝鮮戦争が起こった日なのである。
本シリーズは、本当なら先週金曜に1950年の回が終わっているところを、今日に延ばしたのはこのタイムリー性を狙っていたのである。
さて、この朝鮮戦争であるが、戦争のきっかけとなったのは、北朝鮮軍が北緯38度の軍事境界線を越えて韓国に侵攻したことである。
すでに説明しているが、韓国と北朝鮮は、2年前の1948年にそれぞれ国家樹立宣言を行っている。
その1年後に、毛沢東が中国本土を統一し、中華人民共和国を建国したことも、昨日の記事で触れた。
中国大陸がすべて中国共産党の支配下に置かれたとなれば、朝鮮半島の中途半端な共産化は、共産主義勢力からみれば、満足とはいかなかっただろう。
北朝鮮の後方支援をしていたソ連は、北朝鮮の金日成から、半島統一のための韓国侵攻の許可を求められたが、スターリンはしばらくの間は首を縦に振らなかった。
というのは、アメリカは広島と長崎に原爆投下をしており、いざ戦争となれば、ソ連はアメリカから核の脅しを受けたら対抗するすべがなかったからである。
ところが、1949年8月、毛沢東が中華人民共和国建国を宣言する2ヶ月前に、ソ連は初めて原爆の開発に成功した。
この出来事によって、スターリンは態度を変えた。金日成は、中華人民共和国の毛沢東にも許可を取り付け、1950年の今日、とうとう侵攻したわけである。
この侵攻の一報を1時間後に日本で聞いたマッカーサーは、当初は事態を楽観視していた。
だが、わずか3日間で北朝鮮軍によって、韓国の首都であるソウルが陥落したことを受けて、急きょ作戦を立てる必要が出てきた。
3ヶ月後の9月に、アメリカ軍はマッカーサーの指示のもと、仁川(インチョン)上陸作戦を敢行した。
アメリカ軍にとって幸いだったのは、事前に中国とソ連がアメリカ軍の計画を察知して、北朝鮮の金日成に仁川付近を警戒するよう警告していたのだが、金日成がその警告を聞かずに少数の警備体制のままでいたことだった。
かくして、マッカーサーの仁川上陸作戦は大成功となり、その勢いで、米韓軍は北進し、10月には北朝鮮の平壌を制圧した。
金日成は、息子の金正日とともに急きょ平壌を脱出して、中国に事実上の亡命をした。
これによって韓国側の優勢が決まったと思ったのもつかの間、裏ではスターリンが毛沢東に対して派兵をけしかけていた。
すでに中国軍は、アメリカ軍が平壌を制圧した10月からその準備に着手しており、この動きをマッカーサーは予想していなかったのである。
そして、中国軍が動いたことを知ったあとも、その軍勢を過小評価していたこともあり、あっという間にソウルは再び北朝鮮側に奪回されてしまった。
これが、年明け1951年1月4日のことだった。
朝鮮戦争は、その後さらに2年間も続くことになり、日本もアメリカの要請で再び戦争に巻き込まれることになったのである。
ただ、憲法第9条にあるとおり、日本は戦争放棄をすでに宣言していた。
事態はどう動いていったのか、この続きは7月8日(月)以降、7月の2週目と3週目に解説していこう。
そして、サンフランシスコ平和条約が、朝鮮戦争の最中で結ばれることになるのである。