【続編】歴史をたどるー小国の宿命(47)
大坂冬の陣が起こった遠因とも言われたキリスト教禁止令だが、直接的な契機となった出来事がある。
それは、方広寺鐘銘事件である。
方広寺とは、後から付けられた寺の名前であるが、この寺に大仏を建立して、東大寺の大仏に代わるものにしたいという考えが、幕府にも豊臣家にもあった。
東大寺の大仏は、ご存じのとおり奈良にあるが、当時は、室町時代の終わりの戦火で焼失して、仮の仏殿が建てられていた。
ところが、1610年に、暴風の被害に遭って仮の仏殿が倒壊したのである。その後、東大寺の大仏が再建されたのは、100年後の1709年のことだった。
方広寺は、京都にあるのだが、もともと秀吉が大仏建立の発願をしていて、それを息子の秀頼が引き継いだ。
秀吉が存命だったときは、工期短縮の目的もあって、木造で建立が進められたのだが、あいにく開眼供養前に大地震に遭い、木造大仏は大破してしまった。これが1596年のことだった。
ただ、奇跡的に仏殿は倒壊を免れたので、大仏様を善光寺如来像で代用しようとした。
それで、はるばる甲斐国(善光寺如来像は、信玄が存命中に今の山梨県に持ち帰られたり、織田信長の長男の信忠によって岐阜県に移されたりしていた)から運ばれたわけだが、この直後に秀吉が急死する。
実は、信長の長男の信忠が、善光寺如来像を岐阜に持ち帰ったときも、直後に本能寺の変が起こり、信長と信忠は自刃に追い込まれた。
また、家康も、信長や秀吉とは別の機会に、善光寺如来像の遷座に関係していたとき、腫れ物に悩まされたという。
そういうことがあったから、善光寺如来像は、秀吉の死後に、もとの信濃国善光寺(今の長野県)に返されたという経緯がある。
当時の人々は、今の私たち以上に、大仏に対して畏怖の念を持ち、信仰していたのである。
さて、前置きが長くなったが、京都で起こった方広寺鐘銘事件とは何ぞや?ということだが、続きは明日にしよう。
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