20世紀の歴史と文学(1918年)

ロシアがどれだけ広大な領土を有していたかは、1918年に相次いで独立宣言をした国々の名前を知れば実感できるだろう。

1918年は、2月にリトアニアとエストニアが独立宣言をした。いわゆるバルト三国のうちの2国である。

もう1国のラトビアは、遅れて11月に独立宣言をしたのだが、これは第一次世界大戦が終結した後だった。

3月にはベラルーシが独立宣言をし、5月にはアルメニアとアゼルバイジャンが独立宣言をした。

ただ、独立宣言をした国々がそのまま現代まで独立を維持してきたわけではない。

その後に勃発した第二次世界大戦でまたロシアとドイツが対立したことを知っている人なら、お分かりだろう。

今、ウクライナ問題では、NATOとロシアが対立しているが、NATOの中でもドイツのショルツ首相が対ロシアで慎重な舵取りをせざるを得ないのは、100年の歴史が物語っている。

そして、フィンランドは昨年4月にNATOに加盟し、つい先月にはスウェーデンも加盟したので、NATO加盟国は32ヶ国に増え、ロシアの脅威に対してヨーロッパ各国が対策を強化するようになった。

さて、話を1918年に戻すと、ロシア帝政が崩壊したことで、それまで首都だったペトログラードから、今のモスクワに首都機能が移された。

ペトログラードは、今で言うサンクトペテルブルクである。

バルト海沿岸に近く、ロシア第二の都市になっている。ソビエト連邦の成立へと導いたレーニンの死後は、1991年までずっとレニングラード(=レーニンの街)と呼ばれていたが、ソ連崩壊後はまたサンクトペテルブルクとなった。

1918年11月、ロシアに代わってアメリカが参戦したことからドイツの劣勢は決定的となり、ドイツは連合国側と休戦協定を結んだ。

これによって、第一次世界大戦は終結したのである。

ただ、ロシアの混乱に乗じて、連合国は8月頃からシベリア出兵を行っていた。

シベリア出兵の名目は、現地に残っていたチェコスロバキア軍の救出であった。

もともと第一次世界大戦は、オーストリアとセルビアの対立が、ドイツとロシア、ドイツと連合国(イギリス・フランス・アメリカ・日本)という形で対立構図が拡大していった。

ということは、ドイツとオーストリアの影響下にあったチェコスロバキア軍は、ロシアから見れば敵にあたるわけで、実際、旧ロシア帝国軍の捕虜になっていたのである。

しかし、捕虜救出よりも、連合国にはロシアの共産主義が広がることを恐れていたため、現地に立ち入ることで、なるべく各地で起こりうる革命の芽を摘んでおこうとしたのである。

日本も、イギリスやフランス、アメリカからの要請を受けて、8月から今のウラジオストク経由でシベリア入りをしたのだが、アメリカでさえ7000人ほどしか派兵していないのに、7万人以上も陸軍を送り込んだのである

これは、当時の軍部が、シベリアの資源確保などを目論んでいたからであり、日露戦争が終わってからまだ10年ほどしか経っていない状況で、再び領土拡大を狙っていたわけである。

これは、さすがにやり過ぎであった。

そして、国内では、米の価格が高騰して米騒動が起こった。

理由は明白で、米商人がシベリア出兵による物資需要をあてこんで、米の買い占めや売り惜しみをしたからである。


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