【続編】歴史をたどるー小国の宿命(81)

咸臨丸でアメリカに渡った勝海舟と福沢諭吉は、ともに異国の文化に圧倒されて、日本が今後目指すべき方向性を再認識し、多くの学びを持ち帰った。

それが、1860年のことである。

ただ、日本国内では、外国人の排斥運動が攘夷派を中心に起こっており、浪人たちによる殺傷事件は頻発していた。

そんな中で、今では地方公務員ともいえる薩摩藩の正式な藩士が起こした生麦事件は、衝撃的なものだった。

1863年9月14日、今の横浜市鶴見区生麦駅の近くで、薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人グループが、薩摩藩士に斬られて死傷した。

そのグループは、男3人女1人のグループで馬に乗っていたのだが、ちょうど島津久光がいる大名行列に出くわしたのである。

薩摩藩の藩士たちは、イギリス人たちに馬を降りて行列を避けるように身振り手振りで呼びかけた。

ところが、英語が話せないものだから、一生懸命に身振り手振りをしても、そのイギリス人グループには伝わらなかった。

ただ、イギリス人たちもなんとか薩摩藩士の言いたいことを察して(=つまり、よけたらいいのだろうと解釈して)、大名行列の脇を通ろうとしたのである。

だが、行列の脇を通ろうにも、道いっぱいに大名行列の藩士たちが広がっているものだから、馬に乗ったままでは、馬は通りようがない。

だから、意に反して、向かってくる行列の中を逆にかき分けて進むような形で、馬が蛇行しだしたのである。

薩摩藩の藩士からすれば、自分たちはあれだけ身振り手振りで馬から降りるよう伝えたのに、降りるどころか無礼にも乗ったまま突っ込んで来やがったと怒りが生じたわけである。

その上、日本人であっても、大名行列を横切ることができるのは、先を急いでいる飛脚と、産婆だけに限られていた。

もはや我慢の限界となった藩士たちは、刀を抜いて斬りかかり、イギリス人の男1人は死に、残る男2人も重傷を負った。

これが、生麦事件の真相である。

イギリス本国は、この事件を知って激怒した。

そして、翌年(1863年)、薩摩藩に対して、斬りかかった藩士の死刑の要求と、賠償金の請求をしてきた。

薩摩藩にも、もちろん言い分はあるので、最初はこのイギリスの要求を拒否したのである。

イギリス側は、要求が呑めないなら戦闘を通告すると言ってきたので、薩摩藩はついに戦う覚悟を決めた。

これによって、一気に薩英戦争が起こった。

言葉が通じないことから誤解が生まれ、誤解が刃傷沙汰に発展し、お互いの言い分が相容れず、ついに武力衝突となる最悪の結末を招いたのである。




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