20世紀の歴史と文学(1902年)
官営八幡製鉄所を建てたのは、軍備拡張の一環であったことを昨日の記事で触れたが、日本は、何のために軍備拡張を図ったのだろうか。
それは、ロシアや欧米列強に対抗するためである。
日本がまだ江戸時代だったとき、1840年にイギリスと中国の清との間でアヘン戦争が起こり、大国の清がイギリスに敗れた。
そして、今の香港が、イギリスに割譲されたのである。
これが、ヨーロッパによるアジア植民地化の第1歩となり、以降1900年までの60年間で、アジアは他国からの侵略の脅威にさらされた。
日本も、アメリカのペリーが黒船で来航し、開国を迫られ、日本に不利ないわゆる「不平等条約」を結ばされた。
中国の清も同様であり、香港割譲後は、次第に衰退していった。そこにロシア帝国からも付け入られ、北からじわじわと侵略されるようになったのである。
1860年に、ロシアは清の領土だった中国北東部を北京条約によって獲得したのだが、この獲得したエリアにできた都市が、今のウラジオストクなのである。
ウラジオストクは、ロシア語で「東方を征服する」という意味があることを知っているだろうか。
ウラジオストクという都市の誕生は、シベリアを横断する鉄道の延伸を可能にしただけでなく、ロシアにとって念願の不凍港獲得にもつながった。
このウラジオストクから、朝鮮半島と中国の境界線上を南へ下りていくと、今の大連や旅順がある遼東(りゃおとん)半島にたどり着く。
日清戦争で日本が一度は獲得した遼東半島だったが、ロシアからすれば、目と鼻の先に日本の領土があるのは邪魔だった。もとはといえば、遼東半島はロシアが先に占領していたのである。
だから、フランスやドイツも巻き込んで三国干渉を行い、日本に遼東半島を手放させたのである。
そうすると、今度は、イギリスがロシアの南下と中国侵略を警戒することになる。
アヘン戦争に勝利して以来、イギリス1国だけで清を半植民地化していたのに、そこに日本が侵略戦争を起こしたので、ロシアやフランス、ドイツは黙っているわけにはいかなかった。
特に、ロシアはフランスと同盟関係にあり、フランスは当時ベトナムを植民地化して、さらに中国南部にも勢力を拡大していた。
イギリスが、ロシアとフランスに南北から挟まれる形で追い出される可能性もあったのである。
だからこそ、軍備拡張の勢いに乗っている日本と利害関係が一致して、お互いに協調してロシアの南下を阻止しようということになった。
これが、1902年の日英同盟締結に至った。
その頃、日本では、八甲田(はっこうだ)雪中行軍遭難事件が起きて、陸軍部隊210名のほとんどが死亡、生き残ったのは11名だけという大惨事になった。
これは、ロシアとの戦争を想定した訓練だった。
この大惨事は、後に新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』の題材となり、1977年には映画化もされた。
新田次郎は、八甲田遭難事件の10年後に生まれた人である。